今日もどこかで生きていて。
昨日親しい友人と都内の飲み屋街でラーメンを食べた。
彼とは小学校からずっと仲良くて、僕の過疎な友人ネットワークの中ではかなりとびぬけて多くの時間を共有している。
彼はこの時期から内定先の会社でインターンとして働いてる。職場が都内だからたまに連絡が来るのだ。
僕が大体暇なのと、ちょうど僕の仕事等が終わったタイミングで連絡が来るというので最近はよくその流れが多い。
というような友人もいれば、ある一定期間だけ仲良く過ごしていた友人もいる。
そこまで仲が良いわけじゃないけど何度も顔を合わせる人もいたり、こちらが一方的に好意をもって接する人もいたりする。
色んな”人”とのネットワークのhubとして自分を認識してみると、「なんともまぁお疲れ様ですじぶん。」と言いたくなる。
あたりまえだけど同時に自分は誰かにとってのノードともなっている。それが弱かったとしても。
みんなそう。
時にはそれが辛いと嘆いてしまうという人もいるだろう。
繋がってるが故の。
失恋とかってやつはそうなんだろうな。
僕ら一人一人なんて壮大なネットワークの中で考えればちっぽけだし、大したことない。
でもちっぽけだからこそ、近くのネットワークしか感覚的に知覚できないからこそ、そのネットワークのエッジが弱まったり、無くなったりすることを恐れてしまうんだろうな。
特にそのエッジに対する重みが増せば増すほど、反動は大きそう。
かといって、弱いエッジをたくさん持っておいたとしても、それはそれで不十分な気持ちに襲われる気もする。
なんともまぁ天邪鬼なもんだなぁ。
繋がりが弱くても、強くても、
僕は今まである程度の時間を共有してきた人のことを好意的に思っている。それが今関係性が強くなくても。
その人がこれからどういう人生を送るのかっていうのも気になる。そこに僕が関わっていなくても。
僕の近くのネットワークのノード1つ1つは、今日もどこかで生きていてほしい。
1つ1つがhubであるから、決して自分自身を卑下しないで目の前の酸いも甘いも苦みも味わいながら生きていてほしい。
そしてたまに一緒に語らう時間を共有しよう。
頑張ろう。
それじゃ。