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[伊豆で読書会]修善寺温泉場で梶井を読んだ話。

11/22 19時前。
修善寺温泉読書会に参加した。


…?
修善寺。
…?
あー、伊豆の。
…?
伊豆半島の真ん中にあるの伊豆市。
…?
あ、静岡県。
…!
そうそう。


文学少女・少年(青年も年寄も)なら1度は文章を通して触れたことがあるだろう、
静岡県の伊豆。
修善寺温泉場や湯ヶ島、湯ヶ野など温泉街として明治大正から有名な場所。
あなたが名前を聞いたことのある作家たちも療養として、または旅行として滞在していた伊豆。
僕はここに1ヶ月前に越してきた。

祖父が元文学少年だったこともあり、僕もまた二十歳を越えて文学少年となった。
そんな僕が伊豆にきたんだ。そりゃ伊豆を歩いて、川端や梶井や漱石や井上靖や…hoge hoge
を読んでいくに決まってる。

そんな根性を持ち移住してきた僕の目に、「修善寺温泉読書会」という文字の羅列が通りすぎた。
その文字を追ってネットの波を溺れた僕は、ビショビショになりながら会場にたどり着いた。

場所は修禅寺の隣のとなりの隣らへんにある、「ITJ BASE Shuzenji」。
伊豆トレイルを主催している会社の事務所兼カフェ兼バー兼ゲストハウス兼イベントスペースという盛り盛りの所だった。
初めての場所に踏み入れるのは慣れているが、お洒落な空間にはどれだけ歳を重ねても慣れやしない。
読書会への興奮なのか慣れない空間に足を出す緊張なのか判然しないドクドクを抱き抱え、会場に入った。

読書会の会場は2階。
ピチピチの衣装を纏うトレイルランナー達の間を抜け階段を上がる。
一段一段上がる毎に1階の部屋の熱気から離れていく感覚が心地よかった。本を読むんだもの、暑過ぎるのは嫌だ。
上りきったときには抱き抱えていたドクドクは階段を転がり落ちていった。

主催者の「伊豆文士村」の神田ご夫妻が出迎えてくれて、参加費の700円を渡して今回の課題図書である梶井基次郎の『冬の日』が印刷されている紙を受け取り席についた。

最初の30分は各々黙々と読む。
ちょうど読み終えるか否か微妙なボリュームだったのが良かった。
程よいタイムプレッシャーと、作品から伝わる梶井の切迫感がよいコントラストとなり、大変居心地が良かった。 


今回の読書会に参加するに辺り、祖父の遺産の中にあった梶井基次郎の全集に収録されている『冬の日』を読んでおいた。
『檸檬』を読んだ衝撃が爽やかに残り続けている僕は、梶井基次郎が何を頼りに文章を書いていたのかという興味に捕らわれていた。
それは苦しみなのか。
結核という持病と向き合い続けることなのか。
『冬の日』では主人公が痰をよく吐く。
紅色の痰にすらもう驚かなくなるほど、主人公は痰をよく吐く。
子供達が見ていないタイミングを見計らって。
ふと歩いてみたクリスマスの銀座では痰を吐けなかった。「なにしにきたのか。」と問いながら銀座の人混みをさ迷う。
『冬の日』の主人公は痰を吐かないと生けない。それは自分のアイデンティティかのように、他人に見せず。家族にも見せず。
そんなどうしようもない孤独と共に冬を迎える。
梶井基次郎は何を頼りに『冬の日』を描いたのか。
ただ主人公に投影するだけでは太刀打ち出来ない不吉な塊が梶井基次郎を苦しめ、彼の文学を作ったのだろうか。
苦しみは創作の種ではあるが、創作するために苦しむ事は何も産みやしない。
抗えない摂理と向き合う事による苦しみが創作の種となるというのを梶井基次郎の文学から僕は感じ取った。


30分が過ぎそのまま感想のぶつけ合いが始まると思ったら僕以外の方々は顔見知りだったみたいで、軽く自己紹介から始まった。
読書会に集まるんだもの、そりゃ普段どんな本を読むのかを自己紹介に盛り込むのはドレスコードだろう?
ついつい話しすぎてしまった。
新顔というのは遠慮がわからないものだ。
そんなことも包み込んでくれる優しい方々で本当に助かった。

自己紹介コーナーは盛り上がり、30分が過ぎていってしまうペースだった。
このままいくと流石に企画倒れになってしまいそうだったから、ファシリテーターの神田ご夫妻が場を持ち直してくださった。

正直どのような話で盛り上がったのかは覚えていない。
ただ1つ思った。
同じ文章を同じ時空間で読み、各々がどのように読み取ったのか、感じたのかを気軽に述べ合うという事の興奮を知らない者はぜひ体験してみてほしい。
こんなにも自分が相対化される経験はないし、人の意見や考えというものが自分の身に染み渡っていく感覚を味わえる。
これはある面では毒かもしれないが、別の面ではクスリである。
どの面から切り取ってもいいが、体験してみないことには判りはしない。
どの地域にも読書会はある。それぞれの特色がある。
そしてどの読書会にも通ずるのが、自分は独りじゃないということを知れることだ。
これは恥ずかしい文字面以上に大事なことだと思う。

文章は自分の部屋で一人きりの状態で読めるが他者がいない。
目の前の文章の奥に他者がいるが、遠い。
しかし同じ文章を一緒の空間で読み、他者の声を聞くことは身を通して独りではないということを知らせてくれる。
こんな経験はなかなか味わえないと思う。
そのような当たり前を改めて知ることができれば、「いかに文章を読み解くか」「作者の言葉の意図を思想的に読み解けるか」などの観念がフワフワし過ぎているというのがわかるだろう。
読書会はコンペではない。他者を感じる体験の場だ。

まぁ兎角言っても、独りで読むというのも楽しいしとても大事だ。
ただ独りで文字面と格闘していても埒が明かないことは読書家には明瞭な話で。
散歩してみる。
別のアクティビティに手を出す。
などなどの要領で読書会に行ってみることをオススメしたいのだ。


少々冗長になってしまったことを詫びる。

自分の移り住んだ土地、かつ文豪の息遣いが残っている街、
ここで読書会があるという奇跡を享受しない理由を探すのは僕にとっては大変なことだ。
これからも参加していこうと思う。



P.S
こんな僕もなにかお手伝い出来るのでは。
という浅はかな夢想を語らせて頂き、
読書会と文芸フリーペーパー等の企画・編集として携わらせて頂くことになった。
本当にありがたい話である。
ぜひ気になったらこちらのHPを覗いてみて。


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