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外面
君から見たら僕はどんなふうに映っているんだい。
ちゃんと不細工に映っているかい。
哀愁をぶら下げているように映っているかい。
細々しい華奢な肌肉には気づいているかい。
僕の内側の喧騒には気づけているかい。
僕は、君の前でうまく笑えているかい。
なんていう問いの矛先は僕のまえにいる君なんかじゃなく、僕自身であるということをここ2年ほどかけて理解した。
自分自身を他人に知ってもらおう、受け入れてもらおうなんていう陶酔をこの世の中で実現した奴はいるか。
いるとしたらそいつは他人の”それ”を知ったり受け入れたりしたか。独り善がりで終わってないか。
他人に理解してもらいたいという欲は大したものだ。それゆえ飽きがこない。
大抵の欲求のオチは飽きなのだが。
他人を理解するというのは一体どんなものなのかをうまく言葉にすることが出来ないのだ。
他人を理解するということを知らぬものが他人に理解されたいと垂れている具合が多い気がする。
まぎれもない僕もそうであった。
だがな。そんな欲が満たされることなど一向に来やしないのだ。満たされてもないのに欲はあり続ける。
こんな面倒な奴と同居してみたことはあるか。
夜も眠れない。
どんな魔性の女よりも一回りも面倒なのだ。
まずな。自分自身というのは大変につかみどころのない輩であることを知っておくことだ。
「内」というのはどうやって知覚する。
「外」となるものが必要だな。では「外」に値するものにはなにがある。
広い意味で”他者”だな。
自分でない”他者”。自分の理屈では動かない”それ”を観察して初めて”自分自身”の残像が見えてくるのだろうか。
だとしたら、「他人に自分自身を理解してもらいたい」なんていうのはおかしな話になるな。
「まずおまえ自身が他人を理解しろ。話はそれからだ。」ってことになる。
複雑がゆえに多様な外面に触れる。
その外面の奥底なんていうのは妄想しておけばいい。そこまで観察することができるのか怪しいし、観察できたと思い込んでるだけの可能性が高い。
妄想程度に嗜んどけばいいのだ。
自分の位置から見える外面は少し見る位置を変えるだけで、全く持って変わって見える。
だがその外面の奥底は見えない。
同じ外面を様々な角度でみるとその変化が面白い。錯覚だ。
そうして外面を観察していると疲れてくるだろう。
では疲れてきた主体はなんだ。
そいつが自分自身ではなかろうか。
そうやって「内」というのを構成してきたのではなかろうか。
外面を観察しない奴がぬかす「もっと内面を見てくれよ」というのは傲慢以外の何物でもない。おまえ自身が見れているのかと問いたくなる。
「外面だけで消費されている気がする。」
なんていう事を言うが、可哀想に、そういうものなのだ。
そんなことを吐露する君自身はどうなんだ。と少し間をおいてやれば絡まり具合がわかってくるだろう。
まぁ言わんとすることはわからなくもない。多様な外面のある一面だけ切り取られて解釈されているのが気に障るという話だろう。
だがそういう眼差しに対して抵抗感を覚える君自身に出会えたという風に解釈するのは飛躍しすぎているかね。そういう他者からの眼差しという「外」によって素描される「内」も否定はできまい。
もし抵抗感を抱くのなら、君自身はもっと他者の外面を色んな角度で観察することを邁進したらいい。
他者の眼差しに対して啓蒙するのではなく、その眼差しによって知覚した自分自身に啓蒙すればいい。
観察される者であり観察する者である自分自身の輪郭に触れていく歩みを止めずにいようではないか。