短評:現実の昭和初期の旧弊さよりも空想の世界を体験するほうがずっといい(かもしれない) 〜 板倉梓「泉さんは未亡人ですし…」
舞台は昭和初期、若い医学生が引っ越してきた下宿の家主は、なんと妙齢の未亡人であり、二人はすこしずつ惹かれ合ってゆく……というロマンス。
ヒロインは、ずばり、板倉梓バージョンの音無響子さん(「めぞん一刻」)といえるだろう。疑似体験的に主人公とヒロインのロマンスをたのしみ、幸せな世界にひたることが、この作品のいちばん大切な要素であろう。
正直、ディテールはあんまり昭和初期っぽくない。しかしそういった時代考証的な部分を求めるのは、作品を楽しむためには的外れなのかもしれない。
どこが昭和初期っぽくないのかを考えてみたのであるが、なかなかいわく言いがたい。しかし確実に昭和30年代までの日本映画ではこのようなムードは出てこない。
ヒロインの職業である看護婦は、かの有名な「愛染かつら」や「暖流」をほうふつとさせるが、そういったメロドラマには病院内部の覇権あらそいなど、もう少し社会的なプロットも含まれている。本作の物語は、ヒロインと主人公のロマンスに尽きる。そういう面では、むしろ花袋「布団」のような日本的な「自然主義」小説がシチュエーション的には近いかもしれない。
しかし、いま、竹書房の萌えマンガ雑誌を読む本作品の想定読者にとって、花袋が描いたような下宿してきた女の子に懸想するオッサンというネタは、男性的視点に勝ちすぎるであろうし、それはもはやロマンスではなく異物だろう。サトウナンキか ふみふみこ の作品のようなグランギニョール的外連味があればまだしも、おそらくそれは肌合いからして受け入れられない、場合によっては「旧い」と感じて拒絶される可能性すらあるかもしれない。
そうすると、いくらリアルであっても、旧弊な男尊女卑的なダメさにあふれたかつての日本社会を追体験することにあまり意義はなくなる。空想的ながら現在の価値観に照らして違和感のないロマンスとして本作品を楽しむほうが好まれるのではないだろうか。