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真っ黒に日焼けした部活帰りの女子中学生が日傘を差して歩いていた

8月20日(火)

真っ黒に日焼けした部活帰りの女子中学生が日傘を差して歩いていた。とても健やかだった。

夜はCoCo壱に行った。
今ここでわたしを接客してくれている店員さんがいる。この人もお店から一歩外に出れば、店員さんではなくなって、どこか別のお店ではお客さんになる。いつかどこかで、この人を、わたしやわたしの友人が接客することもあるんだろうな。そう思うと、社会って大きなおままごとみたいだ。
みたいなことを考えながらチキンカツカレーを食べた。

* * *

2024年8月の日記です。

8月2日(金)

22時頃に自転車で家に帰る途中、回送バスとすれ違った。電気を消した、お客がいない夜の回送バスの車内は、外から見てもとても静かなのがわかる。運転手さんはひとりで怖くないのだろうか。もしかして、誰かの視線から解放された自由な夜のドライブを満喫しているのだろうか。それともやっぱり、あんな贅沢に見える空間と時間も、毎日の仕事の一部でしかないのだろうか。

彼女と共有しているGoogleカレンダーで9月の予定を見たら、彼女が自分で自分の誕生日の週末に「??🎂」と入れている。かわいい。

8月3日(土)

イオンモールの中にあるメガネ屋の前を通ったら、視力検査が遠隔で行われているのが見えた。検査担当のおじさん(50歳くらい?)の顔が、縦長の結構大きなモニターいっぱいに映って、お客と会話をしている。効率的な気もするし、スタイリッシュな気もするが、何かが違うように思える・・・・・・。

夜、テレビでオリンピック柔道の男女混合団体戦を観る。柔道のルールはよくわからないけれど、一人の選手に心を動かされた。48kg級の角田夏実選手。
彼女のスタイルはとにかく巴投げの一点突破。自分より大きな相手の懐に何度も何度も潜り込もうと試みる。一つの技を極める。それでオリンピックにまで辿り着いた。今の戦い方になった経緯や覚悟を想像すると、応援に力が入る。
団体戦決勝では、2階級上のフランス選手相手に巴投げを決めて、一本を奪った。鳥肌が立った。

8月5日(月)

パリ五輪の男子バレー準々決勝、イタリア戦を観る。
第1、2セットを連取し、第3セットにはマッチポイントを握りながらも、イタリアに逆転され、その後フルセットの末に敗退。石川、西田、髙橋藍とスターが揃って、史上最強の日本代表のパリ五輪が終わった。
勝利に手がかかっていただけに悔しい。素人だから詳しいことはよくわからないけれど、選手たちは力を出し切っていたように見えた。一体日本には何が足りなかったのか。そしてイタリアには何があったのか。全くわからない。
こういう一瞬の判断や、数ミリのズレなど、コントロールしようがない要素の影響も大きい。運とも言ってしまえる要素で勝敗がくっきりと分かれてしまう。文字通り紙一重の戦いに人生を賭けて臨んでいる選手たちは、どれほど苦しいのだろう。何と戦っているのだろう。何を信じているのだろう。

8月7日(水)

YouTubeに12年前に投稿された、犬2匹と猫1匹の家の動画を観る。3匹とも真っ白なきれいな毛の子たちでかわいい。
12年前だから2012年ごろの動画。BGMやテロップもついてない、撮影したままアップされた動画でとても平和。3匹ともキャラが立っていて、ニヤニヤに留まらず、普通に爆笑してしまう。

概要欄のリンクから飼い主さんのブログも見つけた。FC2ブログに2011年から2014年まで不定期ながらも週に5回くらいは、白い犬猫たちの写真をアップしている。一緒にお出かけしたり、家でまったりしたり。優しいまなざしに溢れた日常が記録されている。

2014年の1月の記事を最後に、そのブログの更新は急に止まっていた。
わたしは、10年以上の動画とブログ記事を観ている。まるで当時の空気が真空パックで保存されているようだ。”あの頃”は二度と戻っては来ない。けれど、動画の中で10年前の風が吹いていて、10年前のテレビ番組の音が流れている。今のわたしたちはそれらを感じることができる。

2024年の5月に、ブログには10年ぶりの記事が追加されている。「みなさんありがとう!」というタイトルで、3匹と飼い主の近況報告がされている。犬2匹は3年前、4年前にそれぞれ老衰と心臓発作で亡くなって、飼い主もどん底まで落ち込んでいたそうだ。しかし、まだまだ元気な猫と、新しくお迎えした犬のおかげで、立ち直りつつあるとのこと。
時の流れを感じてしまう。亡くなった犬のうち1匹は、2011年生まれで、動画の中ではまだまだ子犬だった。わたしは子犬の彼しか知らない。やんちゃでいたずら好きな彼は、大人になるにつれて少しは落ち着きを得たのだろうか。やられっぱなしだった猫にリベンジはできただろうか。

真っ白な犬が真っ白な雪の野原を思いっきり走っている動画があった。とても幸せそう。
最近YouTubeにアップされている犬たちの多くは、都会の狭い家で飼われている。高級なおやつをもらったり、週末にドッグランに連れて行ってもらったりして、都会型の暮らしも幸せそうではある。
果たして、犬という種の幸福の総量は、過去と現在ではどちらが大きいのだろうか。
猫という種は? そして人間という種は?

8月11日(日)

アーティゾン美術館の『空間と作品』展へ。美術品と、それが生まれた空間、扱われれてきた空間、受け継いでこられた空間の関係性をテーマとした本展。

2つ目の展示室は、真ん中にテーブルを置きダイニング空間となっていた。その部屋の壁に四季の絵が4枚飾られている。一室の空間に、何十年、何百年の季節の巡り、時の流れを感じられた。

次の展示室には、ピカソの『腕を組んですわるサルタンバンク』が掛けてある壁に向かって、ソファが置かれている。絵を観るためのソファの向きである。こういうレイアウトが自宅でもできたらと想像する。「絵を見る時間を作り出す」ための空間が自宅にあったなら、どんなに豊かな時間を過ごせるだろう。

奥の展示室には、畳の小上がりで足を伸ばしながら円山応挙の『竹に狗子波に鴨図襖』をゆっくり眺められた。とにかくかわいい。祖父母の家にこういう襖絵があったならば、子どもの時親戚の集まりでも退屈しなかっただろうな。

こういうふうに、アートを住環境の一部に取り込められたら豊かだなあと思う。

下のフロアの展示室では、作品を守り彩る「額」にフォーカスしていた。
思わず吹き出してしまったのが『わだつみのいろこの宮』という作品に添えられたこの説明文。

手持ちのお金はないけれど、立派な額を依頼する青木

一気に青木繁が身近な存在になった。

他にも面白い作品がいくつかあって、1つは、メアリー・カサットの『娘に読み聞かせるオーガスタ』。

読み聞かせをしてもらってる割には、女の子がとても難しい顔してる。一体何の物語を読み聞かせているのだろうか・・・・・・?

藤田嗣治の『猫のいる静物』も面白い。

猫はめちゃくちゃ悪い顔をしていて、魚はとても疲れた顔をしている。数時間後には魚はこの世にいないだろう。

今日観たなかで好きだった作品が、カミーユ・コローの『ヴィル・ダヴレー』と、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの『騎手(I)』。

『ヴィル・ダヴレー』は、素人目にも光の捉え方が抜群に上手いことがわかる。空から細道に差す光。その独特の鋭さと柔らさが同居する美しさ。

『騎手(I)』は、素朴でかっこいい。一目惚れしてしまった。騎手の尻には皺もない一方で、馬はしっかりと描きこまれていて、その疾走感と逞しさが感じられる。このギャップは意図的なのだろう。直感的に馬の尻!かっこいい! と思った。

帰りに日本橋で彼女への誕生日プレゼントを買った。まだ1ヶ月半くらい先だけど。早く渡したいなあ。

8月14日(水)

ちょっと胸がざわつくような出来事があって、覚悟はしていたけれど、少しブルーな気持ちになってしまった。

彼女がかわいい。
お金がない。
彼女がかわいい。

8月16日(金)

3年半くらい使ったYogiboとのお別れ(メルカリで売れた。今日ヤマトで発送した)。少し寂しい。お世話になりました。

ホークスの柳町の成長に感動。
もともと打率は高いバッターではあったけれど、長打力が課題と言われて、今季の前半はずっと2軍で過ごしていた。なのに、最近は1軍の大事な場面で長打を何本も放っている。長所である確実性を保ちながら、しっかりと課題をクリアした姿は、昨年までとはまるで別人だ。一体、わたしたちが見えないところで、どれほど頭を使いながら努力したのだろうか。

どうぶつ奇想天外のYouTubeチャンネルの動画を観た。デンキウナギが不思議で仕方がない。
まず見た目が不気味。シャツのボタンみたいな申し訳程度の目。その目の周りには、目と同じような形の穴がボツボツと空いている。
そして獲物を痺れさせるために発する電気は、およそ800Vの強さらしい。
一体どうやってそんな生態に進化したのだろうか。どうして「よし、自分で発電できるようになろう!」なんて思ったのだろうか。己の可能性に蓋をしない、発想力の豊かさこそがデンキウナギくんの最大の強みのように感じる。
実際は、ウナギ目(Anguilliformes)との直接的な関係は無く、むしろナマズの仲間に近いらしいが、現在のデンキウナギの身体に進化する過程には、中途半端な発電能力を有したデンキウナギもどきみたいな時期もあったのだろうか。

8月17日(土)

友田とんの『『百年の孤独』を代わりに読む』を読み終えた。
百年の孤独を1章ずつ読むなかで、あっちこっちに話を脱線させながら、「誰かの代わりに何かをする」ということについて考える読書エッセイで、とても面白かった。

わたしは社会人一年目のときに、プロジェクトで頑張ったからと、本好きの上司から『百年の孤独』をプレゼントされた。
その上司とは好きな小説の話とかをたまにしていたこともあってのチョイスだったのだろうが、残念ながらわたしは海外文学はほとんど読んでいなかった。分厚いし、なんか難しそう。笑顔で受け取ってから、とりあえず本棚の下段の端っこに並べておいた。
それから2年が経った頃。そろそろ違うジャンルの本も読んでいくかと思い立って、分厚いハードカバーを開いた。おとぎ話のようで面白い。最初の3章くらいはそう思ってページを捲っていたが、徐々に読むのが苦痛になっていった。登場人物たちの行動が意味不明だし、度々起こる超常現象のようなものが笑い話なのかそうじゃないのか、そもそも登場人物の名前がほとんど同じで誰が誰かわからない。
だけど、せっかくここまで読んだのだから途中で止めるのは勿体ない。それに、上司には「やっと読み始めました!」と言ってしまった。仕方なく、何が起きた? お前は誰? を繰り返しながら、長い時間を費やし、なんとか最後まで読み終えた。

あのときこの本があったなら・・・・・・。読んでる最中に孤独を感じず済んだだろうし、上司に「なんかよくわからなかったけど、面白かったです」以外の感想を言えたはずだ。

ただし、『『百年の孤独』を代わりに読む』を読んでもなお、『百年の孤独』は、結局よくわからない。つまらないわけではない。だけど、一体わたしは何を読んだのだろうか? という取り残された感でいっぱいになる。

その原因の一つには、やはり先にも挙げた登場人物ほぼみんな同じ名前問題がある。そこについて友田とんはこう書いている。

もはや家系図などどうでもよくなってくる。こんな粗忽な人がいて、銃殺されたということだけを覚えている。どういう関係だかはよくわからないが、ただぼんやりと。それはなにかに似ていないかと私は考えて思い当たったのが、お葬式で会った遠い親戚である。祖父が亡くなった時、葬式に集まってきた祖父や叔父にそっくりのひとたちに驚いた。いろんな人が語る祖父のエピソード、その人が語る生い立ち。誰がだれなのか全然わからなかったし、あとで折に触れて父や祖母の話に出てくる親戚もそのどの人かはわからなかった。
「それって、あの背の高かったおじさん?」
「そっちはお兄さん」
まさにそれなのだ。最初はまるでほとんど他人事として読む。誰かはわからぬが、そういう人がいたということだけははっきりとわかる。次に読む時には、もっと身内のものとして、そのつながりがわかってくる。それぞれの痛みを感じながら。それはどちらがいいということではなく、それぞれが違う立場で読んでいる。少しずつ近親者になっていく、不可逆的な経験をしているのである。そう考えれば、はじめて読む時に、正確に読めなくても仕方がないだろう。いや、読めなくて構わない。何しろ、そんな他人事として読めるのは、最初の一回だけなのだから。二度とは読めない読み方で読む、その一回きりであることが大切なのだ。

『百年の孤独』を代わりに読む

わたしはまさにそれだと思って膝を打った。そう思って楽しめばよかったのか。じゃあもう適当でいいんじゃないか!

11月に両親が東京に来るらしい。電話して、正月ぶりに会話をした。東京でどこに行きたいかとか、何を師たいかとかの話をした。良い機会なので、彼女とも会ってもらうことになった。なんだか落ち着かない。脇汗をかいてしまった。

プレミアリーグが開幕。ハヴァーツとサカのゴールでアーセナルは白星発進。やはりこの日々が楽しい!

8月18日(日)

舟越桂の作品が所蔵されているらしいので、世田谷美術館へ行く。
まずは、企画展『生誕130年 没後60年を越えて 須田国太郎の芸術――三つのまなざし』を観てまわる。

展示のはじめの方の油絵を観ていても、なんだか全体的にぼやけたタッチで、なんとなく取っ掛かりがない作風だなと感じた。個人的には、しっかり縁取りされた物体が絵の中にあった方が、そこを起点に視点を広げやすいので楽しめるのだが。

そう思いながらちょっと自分の好みとは合わないかも、と思い始めていたところに、『野宮』というデッサンが現れた。線だけで能のしなやかな動きを表現している一連のデッサンには、日本的な素朴な美しさを感じた。

他の展示室も観たが、どうやら今日は舟越桂の作品は展示されていないようだった。ショック。
美術館を出て、砧公園の中を散歩する。しばらく歩いてから、公園から出ようと思ったが、出口が見つからない。公園に閉じ込められてしまった。それから15分くらい歩き回って、ようやく脱出に成功した。

せっかく普段乗らない田園都市線に乗ったので、三軒茶屋に住んでいる友だちのH本くんと夜ご飯を食べれたらいいなと思ってLINEしたが、夜は予定があるらしい。そのまま一人で家に帰った。

8月19日(月)

週一の営業部×マーケティング部の定例会議。マーケティング部代表として、いつも課長とわたしの二人で会議に臨んでいるのだが、課長が休みの日やお子さんのお迎えがある日は、わたし一人で出ている。
今日は課長が休みなので、朝から憂鬱だった。というのも、いつも課長がいない日に限って、営業部長が回答しようのない質問を飛ばしてくるからだ。
ある程度事前の準備をして会議に臨んだが、案の定営業部長から詰められる。「どうして目標未達ペースなんですか?」「それは予測できなかったんですか?」「どのくらい回復できる見込みですか?」など、回答に窮する質問を次々に投げられ、他のメンバーの前で恥をかかされた。

この営業部長。見た目は爽やかなのに、実はかなり陰湿。マッチョイズムと陰湿さが同居した、本当に嫌な人だ。
最近この会議では心を殺しているので、ダメージは最小限にできているが、それでもやっぱり嫌な気持ち。

8月21日(水)

池袋で『侍タイムスリッパー』を観る。とても笑ったし、とても良い話だった。
時代劇という衰退していくものに命を燃やす人たちがいる。時の流れに抗う。その原動力を、それぞれに与えるのは、人との出会いだ。
新左衛門は優子や関本や山形彦九郎と出会って、現代で侍として誇り高く生きて、会津の仲間たちへの罪の意識を乗り越えた。
それと同時に、新左衛門との出会いのおかげで、優子は書けていなかったシナリオをまた書き始めることができたし、彦九郎は人を斬った過去と向き合うことができた。
みんな、一人では決してできなかったことだ。
出会いというのは尊い。

健康診断を明日に控えているため、脂っこいものや甘いもの食べないように気をつける。健診前だけ気をつけるなんて本質からずれている気もするが。
夜食も食べないように・・・・・・と、なんだかリラックスできないので早めに寝た。(23時頃にグラノーラを食べてしまった)

8月22日(木)

昼過ぎに健康診断のために家を出る。最寄り駅への道の途中にある交差点で信号待ちしていたら、自転車の女子高生が横断歩道の向こう側にやって来た。彼女は信号が赤のあいだずっと、スマホを鏡にして前髪を櫛で丁寧に整えていた。
そして信号が青になっても、ずっと前髪を梳かしている。わたしが横断歩道を渡りきってもまだ前髪を触っている。また赤になるぞ、渡らないのか・・・・・・? と思いながら、わたしは彼女の横を通り過ぎた。どうせ自転車なんだったらすぐに髪は崩れるだろうに。よっぽど大事なんだろう。

13時頃に健診センターに到着。受付で「最後に食事をしたのは何時頃ですか?」と聞かれて「19時頃です」と答えた。「それ以降何も食べてないですね?」と確認されたので「あ、23時頃にグラノーラだけ食べました」と自白した。どうしてこんなところでも誤魔化そうとしたのか。恥ずかしい。「どっちにしても10時間は経ってるので大丈夫ですよ」と優しく慰めてもらった。

検査は30分もかからずに終わり、家に帰って仕事に戻る。

ここ2週間くらいはジャンクフードは避けていたが、健診のご褒美?ということで、夜はマックに行って、思いっきり炙り醤油風トリプル肉厚ビーフとポテトLを食べた。

8月23日(金)

出社日。17時過ぎに退勤して、そのまま東京都現代美術館へ行く。サマーナイトミュージアムで21時まで開館していて、チケットも2割引。
ロッカーに荷物を預けて身軽に「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」を鑑賞。

これが私的コレクションというのが、信じられない。購入の動機は一体何なのだろうか。所有欲を満たすためか、若いアーティストを支援するためか、収集を一種の自己表現としているのか。

特に好きだった作品は5つ。

1つ目がやなぎみわ『案内嬢の部屋3F』。

テカテカのデカプリント写真で質感が好き。

2つ目が奈良美智『Green Mountain』。

淡い緑の中に吸い込まれそう。とても美しい。

3つ目が舟越桂『言葉を聞く山』。
額の艶と、それに対して緑色の胴体のマット感。大理石の目は本当に濡れて光っているよう。半開きの口は、どんな言葉を発しているのだろうか。

4つ目がChim↑Pom from Smappa!Group『気合い100連発』。

東日本大震災から約2カ月後の2011年5月に撮影された映像。津波で破壊された海際で円陣を組んだ10人の若者が、「気合い」を入れるために100個の思い叫ぶ。画面は二分割されていて、片方は円陣を中から、もう片方は円陣を外から映す。
「復興頑張るぞ!」からスタートし、「東北頑張るよ!」「福島最高!」「放射能に負けない!」「放射能に負けない!」「風評被害なんかぶちかませ」など、それぞれが思いを叫んでいく。

中盤からは、徐々に型化された標語のような言葉から外れていき、「車欲しい」「ボランティアの人たちありがとう」「漁師かっこいい」「今年は彼女作るぞ」「彼女を作るぞ俺も」といった言葉が出てくるようになる。
映像はあくまで彼彼女らの姿を淡々と記録する。
きっとこの10人は、多くの大切なものを失った。それでも周りの目を気にしながら、元気な若者として振る舞っていたのだろう。叫ばないとやってられない。わたしには想像もできない。それでも、一緒に叫ぶ仲間がここにいる。ずっと先にあるであろう明るい未来に向けて叫んでいた。過酷な状況の中に希望を見出そうとする若者の強さを見て、泣きそうになった。
「友達が欲しい」「俺は友達だぞ」「俺も友達です」

5つ目がKOMAKUS『GHOST CUBE』。

54台のスピーカーそれぞれから聞こえるいろいろな音声。ラジオ放送みたいな、詩みたいなものもあって、それが何を言っているか聞き取れそうで聞き取れない。ギリギリのところで他のスピーカーの音にかき消される。何も聞こえない。何もわからない。次第にこの四角の塊が恐ろしくなってくる。理解不能な情報が、体に永遠と流し込まれるような恐怖。

8月24日(土)

ティッシュを裏に隠せるサイドテーブルが欲しい。

ロンドン行きたいなあ。アーセナルが強いうちに行きたい。
海外旅行に行く自由があった大学時代(2015〜2019年)はアーセナルが弱かった。いつか優勝するチームを生で観たいものだ。

8月26日(月)

最近は会社に都合の良いように使われてる感じがして不愉快だ。組織のスタンスがブレブレなのが腹立たしい。

Instagramでアニサキスを飼っている人を見つけた。アニーと名付けているらしく笑ってしまった。センスが狂っている(良い意味で)。

8月27日(火)

画像フォルダ整理のために遡ると、夕焼けの動画が結構ある。自覚はなかったが、夕焼けが好きなんだなあと思う。
これから生きる日数分だけやってくる夕焼けを、眺めの良い場所から何度見られるか。それが重要な気がする。

8月28日(水)

ある代理店主催のオンラインセミナーに参加した。中身は、クライアントである事業会社の若手男性社員を、代理店のおばさん2人が事例紹介を通して持ち上げる会だった。一体わたしは何を見せられたのだろう。

8月31日(土)

毎日焼肉食べたい

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