雪が積もると夜が明るい
2024年2月前半の日記です。
写真はその日とあんまり関係ありません。
2月1日 木
押入れの中を整理してたら、大学生のときに使ってた財布を発見。中身を確認すると5000円札が入っていた。ラッキー。大学生の自分から突然5000円プレゼントされた気分だ。
この5000円を何に使おうか。このままATMに入れて翌月のカードの引き落としに消えてしまうのも勿体ないし。
寿司でも食べに行くか、なかなか買う勇気が出なかった5000円くらいの本を買うか、『めぞん一刻』の新装版を買うか・・・。
こういうことを考えるのってなんだか懐かしい。いろんな人からお小遣いをもらえた学生時代にはたまにあった。
おばあちゃんからもらった1万円札とか、尊敬する先輩から頂いた5000円札とか、見たことないだろうからと親戚のおじさんがくれた2000円札とか。当時は「このお金は使わないで取っておこう」とか「ここぞという買い物のときに使おう」とか思っていた。
大事な人からもらった大事な”モノ”として、わたしはお札を封筒に入れて引き出しにしまった。あのとき、お札は単なる貨幣ではなかった。
(そう言いつつ、いつの間にかモスバーガーとかで使ってしまっていたのだが)
お札を貨幣として考えたならば、今日見つけた5000円札だって、インフレの影響で大学時代(5-6年前)と比べて貨幣的価値は相対的に下がっているだろう。そう考えてしまうと損した気分になるのでやめておく。
お金を”モノ”として捉えられるような純粋さは尊い。手元にある一枚の紙切れを社会一般の価値尺度で測ることに見向きもせず、それをもらった日の記憶や感情でオンリーワンの価値を吹き込んでいた。
けれども、大人になってもその純粋さを保ち続けるのは、なかなかに難しい。
2月2日 金
会社の先輩とランチの約束をしていたので、昼過ぎに先輩のデスクに行く。
「何食べよっか」と聞かれて、
心のなかでエスニック系だけは嫌だ、
エスニック系だけは嫌だと唱えながら
「魚系ですかね」と答えたら、
「魚か〜。う〜ん、タイ料理はどう?」
と言われてしまった。
結局タイ料理になった。
電車の隣りに座ってたおじさんが、HPの赤いノートパソコンの背面中央にAppleのシールを貼っている。その感性が羨ましい。
2月3日 土
『にがにが日記』読み終わる。いいなあと思った文。
16時にJ野と新宿集合。
J野くんが服を買いたいらしいので一緒にお店を回った。
今年は個人的に新しい服を買うことを禁止しているのだが、友だちが買い物してるのを見ると、結構スカッとして買い物欲が満たされる。
ありがとうJ野くん。
夜は焼肉を食べた。
2月4日 日
近所の図書館に2時間弱いた。
羽布団の上から毛布をかけたほうが、保温力が高くて結果的に温かくなるのは知っている。けれど、極寒の寝室でベッドに入ると(節約のために暖房はつけない)、羽布団カバーが肌に触れるとひんやりする。だから、毛布の上から羽布団をかけてしてしまう。
目先の温かさ、快楽を優先してしまう愚かさ。
2月5日 月
ちゃんと雪が積もった。夜が明るい。テンション上がる。
雪と雷が同時に。かっこいい。一番かっこいい気候かもしれない。
ヘラルボニーのオレンジのダウンストールがほしい。
2月6日 火
Apple TV+で『ボーイズ・ステイト』を観る。
テキサス州全土から集まった10代の少年たち1100人が擬似選挙を行い、州政府を一から構築するという政治キャンプの様子を映したドキュメンタリー。参加した少年たちははじめに連邦党と国民党に振り分けられる。その後各党は指名候補を選出し、綱領を作成して選挙に挑み、最高位職となる知事を決める。
まずは党内部で氏名候補者を決めるための争いがあり、綱領を作成する際の内部対立もある。その後にはもちろん相手の政党との戦いがある。
選挙という争いに次ぐ争いのなかにあって、わたしたちはどれだけ理性的でいられるか。その難しさを感じる作品だった。
意見が異なる相手とも理性的に話し合って合意を目指すよりも、相手を中傷して対立を煽る方がずっと簡単で楽だし、多分勝ちやすい。
このシステムは果たして本質的なのだろうか?
『なぜ君は総理大臣になれないのか』で小川淳也が「何事も51対49で決まっている。政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです」と言っていたことを思い出した。
2月7日 水
ミスドで本を読んでたら、隣の女子大生2人組の会話が聞こえてきた。
一人の子がいま19歳で、5月に二十歳になるらしいが、二十歳を「ハタチ」でなく「にじゅう」と言っていた。ちょっと間抜けっぽい。
だけどよく考えたら、「ハタチ」と読む方がおかしくないか? 二十歳の一年間だけ読み方が異質すぎる。
それだけ特別な一年ということか。羨ましいなあ二十歳。
Apple TV+で『テリー』を観る。男女3人が同じ屋根の下で一夜を過ごしても何も起きないっていうのが、若さだなあ、ティーンだなあ。
若者の瑞々しさを喰らった一日だった。
2月8日 木
仕事終わりに課長にラーメンを奢ってもらった。
「(あなたのやさしさを何に例えよう)くんは積極性が足りないんだよなあ。せっかく能力はあるのに、もったいない」みたいな言われた。
課長はとても良い人だし、部下思いで尊敬できる上司だ。
でも、こういう会話の端々で、マネジメントのテクニックみたいなものを実践されているなと薄々感じてしまうことがある。何かを指摘する際は、褒める→叱る→褒めるみたいに、ポジティブな声掛けでサンドウィッチすると部下のやる気がアップする、みたいなやつ。こういう有名なテクニックは、平社員のわたしでもネットとかで見たことある情報なんである。
一部は本当にそう思って褒めてくれているのかもしれないし、本当に思ってなかったとしてもわたしを傷つけないための配慮をしてくれているわけだから、やはり課長は何も悪くないのだけど。
褒めの裏側にある意図を感じてしまって、素直に受け止められない。
というか、上司にそこまで気を遣わせてしまってる自分にまた失望する。
2月9日 金
渋谷とか新宿とかを歩いていると、人の群れは案外簡単に騙せるんだなあと思う。
たとえば、たくさんの歩行者が待ってる赤信号の交差点。車の通りが少し落ち着いたタイミングで、先頭で待ってる人が横断する素振りをすると、後ろの人はつられて付いていきそうになる。みたいな場面に遭遇することがある。(特に後ろの人がスマホに気を取られてた場合はつられやすい)
駅のホームで電車を待つときにもそう思う。通常は整列乗車位置表示に沿って2列-3列くらいの列が作られるけれど、たまに何の表示もない場所に短い列ができてたりする。その列は大抵、誰か一人が整列位置じゃないところで待っていたら、そこが整列位置だと勘違いした人が後ろに並び始めて作られる。
こういう集団における人間の習性を悪用することもできるんだろうし、空間デザインなんかで快適な街を作ることもできるんだろう。『ニューヨーカー誌の世界』でタイムズスクエアを再構築したプロジェクトを取り上げた回のことを思い出した。
人は障害物が何もない空間よりも、キーとなる位置に何かが置いてある空間のほうが快適に動ける。何もない空間において誰かをよけて歩く場合、その人と何らかの取り決めをすることが求められるが、動かない無生物が相手の場合、意思決定のプロセスが省かれるからだ。
タイムズスクエア再構築プロジェクトでは、キーとなる位置に巨大なベンチを置き、舗道にはデザインを施すことで、無意識下でどう動くべきかわかるような空間を作り出していた。
2月10日 土
A boy I don’t like told me
To write from the heart
I didn’t know what that meant
Because I never knew I had one
I never knew I had a heart
Till you said you kissed a boy I haven’t met
Then I knew I had a heart
Because I thought it might stop
And when I thought
My heart might stop beating
I realized it had always been there
But it didn’t know how to feel
Until I thought about losing you
I knew we wouldn’t last forever
I was waiting for this day
But I hope we can fix things
And if we can’t
I will always thank you
For showing me I have a heart
嫌いな奴が言った。心から書け。
意味が分からなかった。俺には心がないから。
お前が他の男とキスしたって聞いたときわかった。俺にも心がある。
心臓が止まる。そう思ってやっと気がついた。
心はずっとあった。感じなかっただけ。
失う恐れで動かされた。永遠には続かない。こんな日が来るとわかってた。
やり直せなくても感謝してる。
心があると教えてくれて。
『セックス・エデュケーション』より
2月11日 日
11時ごろに日比谷へ。
早めの昼ごはんを食べに喫茶店に並ぶ。席は結構空いてるのに、店員が2人しかおらず、テーブルの片付けと準備が全然間に合ってない。テーブルを拭くくらいなら自分でやるので、早く案内してほしい。(店員さんは悪くない)しばらく案内されなさそうだったので列から離脱。パン屋に行った。
東京国際フォーラムでラ・ラ・ランド シネマ・コンサート。
普通のオーケストラのコンサートはハードルが高いけど、シネマオーケストラには一度行ってみたかった。
終わってみたら大満足。音楽の知識が全く無いわたしでも、映画のストーリーを補助にしながら、音による感情表現とか情景描写を感じることができた。
2月12日 月
昼ごろ渋谷へ。
ヒューマントラストシネマ渋谷で、人生で一番好きな映画『エル・スール』を観る。初めて観たのは大学生の頃で、父親の過去を描かないことで膨らむ悲痛さと切なさから、余白の豊かさを学んだ。今回初めて映画館のスクリーンで観ることができて幸せだった。
『エル・スール』が終わったのが14時すぎ。30分後にまた別の映画館でチケットを予約していたので、ササッと昼食を食べるために急いで近くのマックへ。モバイルオーダーでポテトLサイズのクーポンを使ったのに、席に届けられたのはどう見てもMサイズだったので、店員に言いに行った。すると、「失礼しました」とか「申し訳ありませんでした」も言われず、何もなかったかのようにただLサイズと交換された。わたしは急いでいたこともあり少しイラッとしたので、差し出されたLサイズポテトを無言で受け取って、何か不満ありげな表情で3秒くらいトレーを凝視した。
急いでハンバーガーとポテトを食べて、ル・シネマ渋谷宮下に移動。バス・ドゥヴォス監督の『ゴースト・トロピック』と『Here』を観る。
どちらも静かな映画で、『ゴースト・トロピック』で隣の席になった男性は、すぴーすぴーと気持ち良さそうに眠っていた。結構長い間眠っていたが、あるシーンで野良犬が「ワン」と吠えたとき、ビクッとなって目覚めた。
2本終わったのが18時前。パンフレットを買おうと売店に並ぶと、店員がレジの操作に手こずっていた。胸には研修中の文字。心のなかで「頑張れ」とエールを送り、苛立っていないことをアピールするために微笑みながら順番を待つ。無事わたしの会計が済んだ後、店員さんの目をしっかり見て「ありがとうございます」と言ってみた。
その後、下りエレベーターに乗る。同じ上映回から出た人が乗ってるので、結構な人数が乗っていた。1階に着いて皆がぞろぞろと降りるなか、ボタン前に立っていた男性が、全員が降りるまで「開」ボタンを押し続けていた。けれども他の乗客は彼の行為がさも当然のことかのように、感謝を示すことなくさっさと降りていった。全く感謝されていない姿が不憫だったので、最後のほうに降りたわたしは、男性に向かって「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
急いでいて昼はマックの店員に悪態をついたわたしが、すべての予定を消化した後の夕方は、新人のバイトやエレベーターの同乗者に優しく微笑みかける。
我ながらかなり人間っぽいなあと思う。同じ人物の行動とはとても思えないほど、自分に余裕がないときとあるときで、こんなにも行動に差が出てしまう。
自分に余裕があるときは誰でも人に優しくできる。そんな時に与える優しさは快楽でさえある。そして、都合の良いことに「人に優しくした」という記憶は結構頭に残る。
逆に自分に余裕がないときの行動というのはほとんど無意識で、自覚することすらない。
例えば接客業にかなり大きなストレスを感じていて、心がボロボロ、休職一歩手前って状態の店員がいるとする。ある日たまたまわたしがその人が働くお店に行って、たまたま悪態をついてしまう相手がその人かもしれない。自分の言動が誰かの心を完全に壊す決定打となり得る。
そういう想像力を働かせなければならない。
夕飯は天ぷらたかお。追加で牡蠣も頼んだ。
贅沢な一日だった。
2月13日 火
18時半に退勤して南古谷の映画館へ。南古谷駅は想像よりもさらに田舎だった。ウニクス南古谷も田舎の商業施設感が凄まじくてたまらない。外国人親子がウキウキ顔でスクリーンを見上げている映画館の巨大看板には笑ってしまった。
『瞳をとじて』を観る。客は自分含めて2人だった。贅沢な160分間だった。
23時に映画が終わって、23時31分の終電を待つ。深夜の駅のホームに自分一人というシチュエーション。テンション上がる。
2月14日 水
最近『ハイキュー!』の第4シーズンを復習している。
第4シーズンの春高の試合では、東京都予選で敗退した戸美学園のキャプテン・大将優が、バレー素人の彼女と一緒にスタンドで観戦しながら、バレーのルールや各プレーの意図を説明することで、”解説役”の役割を果たしている。
”解説役”は、大事なシーンで何が起こっているのか、どういう状態なのかを視聴者にはっきりとわかるように説明する重要な存在で、『SLAM DUNK』で言うところの牧紳一であり、『はじめの一歩』で言うところの鷹村守であり、『アイシールド21』で言うところの進清十郎である。
その重大なポジションに、まさか大将が抜擢されるとは。大将率いる戸美学園は、言ってしまえばぽっと出での噛ませ犬チームである。主人公が通う高校のライバルである音駒高校と、春工出場をかけた東京都の予選で対戦した一試合にしか登場しない。さらに、勝利のためには相手を煽ったり審判を欺いたりすることも厭わない卑怯なチームとして描かれており、好感度も低かった。
そんな戸美学園の太将が、物語のクライマックスである春高で解説役を任されているのである。作者から信頼されている証だ。
自分がもしもハイキュー!の世界に存在したとして、解説役のポジションを与えられるだろうか? いや、多分無理だろう。
解説役をこなすには、圧倒的な分析力と冷静さに加えて、発言に説得力を持たせるためにも、ある程度の実力も必要だ。
大将は実はすごいヤツなのである。
2月15日 木
朝から動悸がすごかった。仕事のストレス。
2月16日 金
会社でストレングス・ファインダーをやった。180件くらいの質問に回答すると、自分の強みを見える化してくれる才能診断というやつ。
それから、自分の強みと、チームメンバーの強みを知って、日々の仕事に活かすため、診断結果をもとに部署内で話し合った。
これが結構楽しくて、
「この人には◯◯な特性があるから、△△な指示の出し方はストレスになるのでは」
「あの人の□□の特性をポジティブに活かすためには、XXみたいな状況を作り出したほうがいい」
「この人の▽▽な特性と、あの人の◇◇な特性は、一見相反しているけれど、うまくいけば補完し合えるかも」
みたいな議論が進んだ。
わたしの特性はざっくり言えば「慎重派で、手がかる内弁慶」で、診断前からずっと自覚していたものとほぼ一致していた。
それがストレングス・ファインダーの診断結果では、「親密性」「調和性」「慎重性」「内省」というふうに、それっぽい強みとして言い換えられており、その強みの活かし方や気をつけるべきことが解説されていた。
さらに、日頃のコミュニケーションのあり方等をチームで議論したことによって、今まで短所としか思えてなかった自分の特性の捉え方を少し変えることができた。何か病名をつけられたら気が楽になることがあると言うが、それと遠くない感覚かもしれない。かなり気が楽になった。
今日は、同僚にメンバーに恵まれていることを実感した。
前いた会社でもこういう診断を何度か受けたことはあるが、結果を受けてみんなで議論するみたいなことはほとんどなかった。
いまの会社の人たちは、結果を受けて、どう強みを活かすかとか、苦手をネガティブな状況を作らないかとか、日頃のコミュニケーションをどうするかとかを、前向きに考えて議論する。とても働きやすい。
最近スマホの調子が悪い。6年くらい酷使してるから買い替え時かもしれない。
MacBookの電池も死にそうだ。できれば買い替えたくないのだが。
2月17日 土
武蔵野館で『このハンバーガー、ピクルス忘れてる』を鑑賞。おもしろかった。
パンフレットを買って読む。ヒロイン役の石川瑠華さんがインタビューで、好きなセリフを1つ教えて下さい、という質問に対して、
と答えていた。
日常生活においても、わたしたちが発する言葉は、相手に何かを伝えるための道具でしかない。ならば、自分が発した言葉自体よりも、それを受け取って相手のなかで生じた感情のほうが何倍も大事なはずだ。
穴子天丼の食べ方の正解を教えてほしい。穴子が一本長すぎて丼からはみ出す。一旦蓋にどけておいてよいのか? 食べづらい。おいしいけど。
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