「普通の人でいいのに!」における「普通」とは何か?
月初めごろに話題になった「普通の人でいいのに!」では、「普通」という単語が16回も登場します。この16回、全てで「普通」が同じ意味で使われているわけではありません。少なくとも3種類の「普通」に分けられます。
作中における「普通」の意味を明らかにすることで、主人公である「田中未日子」の考え方など、新しい見方、より深まる見方ができるのではないでしょうか?
3種類の「普通」
作中で登場した「普通」の単語をまとめると表1のようになります。
これらを使われ方などから分類すると、以下の3種類に分けられます。
分類A:「理想」としての普通
分類B:「低俗」としての普通
分類C:『「低俗」を「理想」として再解釈・接続したもの』としての普通
これらの「普通」の内実とは、どのようなものでしょうか? 作中のセリフや描写から考察していきます。
(うまく当てはまらない「ジャズ喫茶? ~ そんなに堅苦しくなくて」は除外している)
「理想(規範、通念)」としての普通
この「理想」とは、端的には「理想の恋愛」のことを指します。作中11ページにおける「VIVA映えない!?プロフィール」のコマでは、田中と倉田の顔写真がハートマークを描く線でつながれており、マッチングが「恋愛」における話であること示しています。また14ページには「世の既婚者の4人に1人はオフィスラブしているのだ」、「普通に出会えれば好きになれたのに」とあります。
このような描写から「普通に出会いたい」という言葉の「普通」が、恋愛または、恋愛に関係する事柄を意味することは明らかでしょう。
ちなみに「理想」という言葉は、規範、理念、通念とも言い換えても構いません。経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの「通念」の考え方は、この「普通」たる恋愛を考えるに辺り、参考になります。
特定のことについて、多くの人に広く受け入れられている考えを、かれはconventional wisdom「通念」とよぶ。conventionalという語には、慣習的な、ありきたりの、因習的なというニュアンスがあるように、新しいものを作り出していく現実に対し、時代遅れになっていくという意味が含まれている。「通念の敵は現実」と、ガルブレイスが言うとき、「通念」にはかつての時代を意味させ、「現実」には、変化し、進歩した現代を意味させている。
伊藤光晴(2016)「ガルブレイス-アメリカ資本主義との格闘」岩波新書p98
「通念の敵は現実」。通念が「理想の恋愛」、現実が「マッチングアプリ」となるでしょうが、「理想の恋愛」とは何でしょうか? これを考えるにあたり、は作中で度々繰り返される「普通に出会いたいって」というセリフから考えてみます。
「普通に出会う」という発言は、裏に「普通ではない出会い」が暗に示されており、「普通ではない出会い」とは、作中の内容から、マッチングアプリを通した出会いを指すことは明らかです。このマッチングアプリを通した出会いは「“意図した”出会い」という意味を持ちます。なぜなら事前に相手の職業や年齢、容姿を見たうえで出会うわけであり、スクリーニング(選別)が行われ、出会いはある程度、予想されたものとなります。
作中で田中が国立社会保障・人口問題研究所の第15回出生動向基本調査のデータを用いて、「世の既婚者の4人に1人はオフィスラブをしている」と述べていますが、示されているデータは「職場」、「友人兄弟の紹介」、「学校」、「街中・旅先」等々です。それらは全て「“意図した”出会い」の逆である「“意図しない”出会い」――「偶然の出会い」です。
「普通ではない出会い」がマッチングアプリならば、普通たる「理想の恋愛」における出会いとは、そうした「偶然の出会い」によるものでしょう。スマートフォンやPCなどの携帯情報端末機器が普及する以前と同じ出会いです。
おそらく旧来からある「偶然に出会って、お互い恋に落ちて、結婚して、子を授かって……」みたいな抽象的かつ“普遍的”とされる恋愛観こそが「理想の恋愛」なのでしょう。「空から女の子が降ってくる(そこから関係性・物語が始まる)」という物語的な恋愛観でもあります。(*1)
そして、マナミは作中において、無自覚に「理想の恋愛」が一般的であるとする価値観の発言をしています。39ページではマナミがリサの結婚について「リサさん30歳の誕生日に入籍って 素敵じゃないですか?」、40ページでは、田中の「期待しないで 普通だから」という言葉にマナミは「いいなぁ 素敵じゃないですか」と言います。「いいなぁ 素敵じゃないですか」というのは特に意図のないお世辞である可能性も高いですが、これらの発言は『「恋人」自体が素敵なことである』という価値観を含意しています。少なくとも、リサさんの結婚と田中の彼氏を同じように「素敵」と表現していることには変わりありません。また作者はnote.comにおいて「普通の人でいいのに!」の倉田から田中への電話から居酒屋デートまでの期間にあったタヒチでの会話を描いた作品「普通の人でいいのに!1~4」を載せています。
こちらでは、マナミとリサは4ページ目で「未子ちゃんは倉田さんのことを意識しているのではないか」と思い、目を輝かせています。これらのことからマナミは理想の恋愛――恋愛自体が魅力的な何かであり、それを叶えるということは素敵で幸せなことである、と考えているのではないでしょうか。
ちなみに、この「理想の恋愛」を別の言い方にすれば、「恋愛感情を基盤として、彼氏(恋人)を作ら“ないといけない”、“作るべきである”」と言うこともできます。
おそらく、田中もこの価値観を持っており、内面化していると思われます。ただ、このような「理想(通念)」の恋愛観は現代という「現実」でも通用するでしょうか?
作中では「難しい」と示されています。田中のみならず、マナミですら、現代のツールであるマッチングアプリを使用しています。「マッチング強者」と田中に評されるような容姿と年齢のマナミですら、何の気もなしに、「理想」たる恋愛が降りてくるとは考えてないのでしょう。「偶然の出会い」による恋愛は「理想(通念)」であり、マッチングアプリは「現実」なのです。
このような理念、理想としての「恋愛」が、「普通の人」、「普通に出会いたい」というセリフに意味されている「普通」と考えられます。
「低俗(魅力のない、ありふれた)」としての普通
この「普通」は倉田を評する際に使われる、もしくは、ありふれた日常(28ページで述べられる「私向きの日常」)を表現するのに使われています。田中の理想たる伊藤やマナミ、リサに対しては使われていません。
2ページから9ページまでのデート描写からすれば、田中は倉田とのデートを「良かった」とは思っていません。しかし、9ページ下では「って感じで普通のデートでした」と答えています。すごく楽しいこともなければ、すごく最悪というわけでもない、特に何かを魅力に思うわけでもない、という具合でしょう。
同じく9ページで倉田を「会社でも普通にいい人で」と評するのは、職場で物を持ってもらった程度の親切を思い出してのことです(「普通の人でいいのに!1~4」での描写)。田中自身は倉田に対し、「まぁ、いい人だったよねえ(あんま喋ったことないけど)」と特段、強い印象を持っていません。代わりに何かをしてもらった、という経験は、職場に限らず、よくあることでしょう。別に特別な話、魅力的な物語ではありません。
16ページの「そう これが普通なんだよね 現代日本における普通の男性」では、倉田の魅力のなさを示す言葉として「普通」が使われています。すぐ前の12ページで「伊藤さんが私の発言をラジオ放送の参考にしてくれる! 素敵!」と田中が喜んでいること、「これが普通なんだよね」の後に続く、田中の倉田に対する違和感描写を踏まえると、“普通さ”で示される倉田の魅力のなさは一層強調されています。倉田に対して使われる印象が強いですが、田中自身にも使われることがあり、26ページの「でも これが私の普通の世界 私にとっての「世界」ってコレ」という叙述シーンでは、伊藤やリサ、マナミの「世界(日常)」と対比して、自分の「世界(日常)」の魅力のなさを表現するのに使われています。
このような魅力のなさ(特別性のなさ)、ありふれたものを表す語としても「普通」は作中で使われていると考えます。
『「低俗」を「理想」として再解釈・接続したもの』としての普通
これは、田中が倉田が魅力的でない相手(恋愛感情を持てない相手)であること、諸々の事情(*2)で倉田(のような男)と付き合わないといけないこと、この状況を納得しようとして使用している「普通」です。
「満を持しての普通の出会い」、「普通の出会い 普通の相手」、「待ち望んでいた 普通の男性 普通の出会い」等々のセリフは、自身を納得させようとして出た言葉のように思われます。「普通の出会い」――「偶然の出会い」こそ満たしてはいるものの、田中は倉田に恋愛感情すら抱いてはおらず、「理想の恋愛」における「普通の相手(恋愛感情を抱く相手)」ではないのです。マナミの言う“素敵”な恋愛では一切ありません。
「ま 村上春樹の主人公みたいな彼だったら、こんな俗っぽい愚痴も吐けないか 普通の彼だから築ける自然体の関係だよね」という言葉は、倉田の低価値を別の尺度から再解釈、再価値化しようとする試みであり、自らを落ち着かせる、思い込ませるための方便、誤魔化し、嘘でしょう。本人は自覚しているのかというと、時々疑問めいたものを思いつつも、気づかずのまま、でしょう。
そもそもでいえば、『「理想」としての普通』と『「低俗」としての普通』は別領域、別ベクトルの話です。「恋愛感情を基盤として、彼氏(恋人)を作ら“ないといけない”、“作るべきである”」という話と「現代日本における普通の男性はお腹の肉が出ている(魅力的でない)」は全く別の話でしょう。2つの間に「私の好み」といった媒介し、接続するものがあって、初めて「恋愛感情を抱くだけの人がいない」という話になるので。
彼女は一体、何なのか?
二〇代でのデートは椅子取りゲームみたいなものだったわ。みんな椅子の周りを走り回っては、楽しんでいた。そのうち三〇歳になると、音楽が急に止まったみたいに、誰もが腰掛け始めたの。私は椅子なしで一人取り残されたくなかった。ときどき思うけれど、夫と結婚したのは、三〇歳の時、一番近くの椅子が彼だったからと言うだけじゃないかって。もっといいパートナー候補を待っていれば、出会えたかもしれないわね。でも待つのは危険な賭でしょ。もっと早く、例えば二〇代のうちに結婚について考えていたら、と後悔しきり。
メグ・ジェイ(2016)「人生は二〇代で決まる-仕事・恋愛・将来設計」(小西敦子訳)早川書房.p147
これは、20代の心理について研究しているアメリカの心理学者である著者が「結婚について本当に、真面目に考えるべき時はいつか」という問いに対する30代の人の発言です。
田中は作中設定で33歳です。その田中の過去については、マッチングアプリで学んだこと「私は誰の第一志望ではないが しゃーない!」程度にしか述べられていません。大学を卒業してから、作中まで33歳までの約10年間のことは一切、述べられていません。せいぜい、かつて好きな人とデートはしたことがあるくらいのものです。彼女は、メグ・ジェイが「人生が決まる」とする20代をどのように過ごしたのでしょうか?
彼女の消費者的かつ主体性のなさ、取るに足らない人物性を考えれば、恋愛や結婚について『「理想の恋愛」を追いかけてはいないが、夢見ている』感じだったのでしょう。27ページでは、田中は何も生み出さず、「素敵、魅力的な人達、世界」にアクセスし、消費するだけの人物であることが読み取れますし、28ページおいては「できることから一歩ずつ なんだよね?」からの「ファミレスでいいや」と即堕ち2コマ的に妥協しています(タヒチ用ファッションで通勤したのは一歩なんだろうけれど)。
実際問題、時代性、現代の社会構造や通念から起こる問題や弊害というものはあります。田中は低い年収であり、休日にも勤務があるため、出会いを増やそうと思っても難しい、体力を回復するだけで精一杯という現状があったのかもしれません。なので、田中に対し「自己責任」と言い切ることもできません。戦後の日本で総中流社会が実現したのも、結婚するのが一般的だったのも社会構造的なものを背景とした事柄であるので、そのときはそのときだった、というだけだったりします。それが規範として成立するので、厄介な話だったりするのですが。
何物でもない者が、自分の思う何者かになろうとするのならば、自分の姿の欲求を見つめ、「今」という社会を見つめ、行動していくほかないのでしょう。それで努力していっても叶うわけでもない「終わりのないディフェンス」が、現実だったりもしますし、難しい所なのでしょうが。時代なんです。
少年老いやすく学なりがたし。光陰矢のごとし。
自分を物語れる中核――種なるものを、形作れるのならば、それは幸いなことでしょうが……。
人生は三〇歳を過ぎれば、いっきに目鼻がつくと、多くの二〇代は想像しています。例え二〇代に何も起こらなくても、全てはまだ三〇代に起こる可能性があると思っています。いま決断しなくても、全ての選択肢はずっとオープンのままになっていると楽観しています。でも選択をしないと言うことが、そもそも一つの選択です。すでに選択をしているのです。
(中略)
先延ばしにしたからといって、より良い結果になるとは限らないのに。良識ある多くの三、四〇代は、遅れを取りもどす人生に直面して、悲嘆にくれています。彼らは自分たちをみて、そしてオフィスで向かいに座っている私を見て、過ぎてしまった二〇代についてこうもらします。「あのころ私はなにをしていたのだろう? なにを考えていたのだろう?」と。
メグ・ジェイ(2016)「人生は二〇代で決まる-仕事・恋愛・将来設計」(小西敦子訳)早川書房.p38-39
脚注
*1
哲学者マルクス・ガブリエルはNHK番組「欲望の資本主義2019後編」で、機械化などで経済行動や製造プロセスなどが合理化される際に、お金では買えないような価値、意味が見逃してしまう、という発言の後に『芸術作品を見たり、ワインを片手に家族や友人と楽しい時間を過ごしたり、そういった体験をするときこそ、私たちは現実の世界にいます。ポストトゥルーズではない真実の世界です。こういった体験に価格を付けることはできませんね。現実の体験の本質は「自由」と「偶然性」にこそあるからです。』と言う。
恋愛もまた「自由」と「偶然性」による体験とするならば、マッチングアプリに依らない「偶然の出会い」による恋愛の意味合いや価値も、いかに自身の言葉で、その体験を物語れるか、体験を自分のものにするか、ということにならないか。
*2
田中が倉田と付き合い、それもセックスや同棲すら行っている明確な理由の表現は行われていない。ここがたくさんの読者の疑問を呼ぶ点であろう。しかし、田中はマッチング弱者であり、歳も33歳と若くない。選り好みできない状況である。「結婚しないのか」といった親など周囲の抑圧もあるだろうし、経済状況、自尊心等々の自身の条件から倉田と付き合うのが一番だと総合的に判断しただけかもしれない。もっとも田中の取るに足らない諸々の行動や考え方を踏まえれば、状況と倉田の行動に流されるままに流されただけなのであろうが。
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