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小林秀雄について(1)


せっかくnoteを始めたのだから自分の好きなことについて話してもいいだろう。私にとっては小林秀雄がまさにそれである。

とはいえ私は彼についての研究者でもなければ先祖に知人がいたというわけでもない。したがって正確な彼の思想だとか実像についてあれこれ詮索するつもりはない。鎌倉の東慶寺にある彼の墓を見るだけで事足りるからだ。あのレトリックにまみれた文章も右に左と静かな思考の世界を彷徨った果ての決心ついたかのような結論の理由もそこにあると思う。あくまで一個人の感想である。異論は各々がめいめいに述べればよい。

タイトルに(1)とつけたのは好きなだけ語れそうな気もするが、同時にその逆の自信もあるからだ。読者あるあるだとは信じたいが、彼の文章には誰をも寄せ付けない力強さがある。読んでるうちは自分も強くなったと錯覚するがそうではない。むしろ誰かが彼の文章を「どうだ。わかったか」の文学だと例えていたと記憶している。まさにその通りだと思う。彼の感想は彼の教養と思考傾向によって導かれたものであり、科学とは違う。むしろそれが芸術への深い眼差しと奥行きが感じる契機でもある。

浪人時代、予備校に小林秀雄の熱烈な読者を兼ねた現代文講師がいた。先生はカリキュラム通り問題用紙を配り採点するのだが面白いことに解説の大半は脱線であった。問題にある文章は大体つまらないのだが先生の脱線を聞いているうちに至極の一品であるかのように錯覚してしまう。彼を通して小林の存在を知ることができた。

話が逸れた。だが今日はこれ以上書く気はしない。今私はバイト帰りの電車でこれを書いている。できれば帰宅までのあと30分はYouTubeでも見ていたい。

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