終電が近づいた駅前のコンビニ。酔っ払った仲間の顔を、見るともなく眺めて無駄な時間を噛み締めていた。その場の雰囲気だけをやりとりして、誰のことも何も知らない。 職場の愚痴も、誰かの恋愛話も失敗談も、あの時はあんなに大事だったのに、今はちっとも覚えていないのはなんでだろう。 だったらこのやるせなさも、いつかは忘れてどうでも良くなるのか。どうでも良くなるなら、今はどうしたらいいんだろう。やけになったらいいのか、抱え込んで蓋をしたらいいのか。 缶を持った手が冷たい。でも、春が近
noteを始めた時、稚拙でもいいから、文章を書きたいと思ったんです。誰のためとかじゃなく、自分のために。 今日は、わけもなく苦しい夜に、筆を取ります。自分を少しでも救えるように。 恥ずかしいんですけど、自分の文章が好きなんです。自分を救ってあげられるのは、自分しかいないと、文章を書いていると、本気でそう思えるんです。 最近、悩むことが増えました。視野が広くなるごとに、自分の客観的な地位もわかるようになってきました。 人に憧れることも、他人の何かを欲しがることも増えました
お久しぶりです。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。 noteを開かないうちに、押し出されるように2024年になってしまいました。 実は去年から社会人をしていたので、思ったことをまとめます。終始素人の乱文ですので、あしからず。 集約すると、2023年は、模索の年でした。会社、というシステムの中に組み込まれて、生まれて初めていろんなことを考えました。 喜怒哀楽を擬人化したような学生の頃と比べて(傲慢だったということです)、個人の感情を抑制することによって、周囲と均質化すること
最初は憧れに近いような感情だった。自分には到底なし得ないことを、飄々とやってのける人だった。そんな人に褒められると嬉しかった。背中を追うようにガムシャラについていった。真似事をした。近づきたかった。 彼女がくる場には必ず参加した。どこにいても、何をしてても、明るく、それゆえに隙の無い人だった。 憧れの中に、微かに欲が出た。もっと、知りたい。強さの理由は?モチベーションは? 彼女は矢継ぎ早な質問に笑って、長い髪を揺らした。はぐらかされても、笑ってくれればそれでいいか、と思うよ
初雪。今年初めての雪に街全体が浮かれていて、寒いのに心は踊るような心地がしている。 ふと見上げると、闇に純白が綺麗だった。都会の夜を飾る電飾と相まって、あまりにも幻想的な光景。 信じがたいような目の前の景色に、喧騒も更に騒がしい。寒さによる緊張は遠く忘れ去られて、人々は舞い上がっているように見える。 僕は行き場のない両の手を、ポケットに入れた。 指先の冷たさが、先ほどより強く意識されるようだった。 その冷たさが心にも伝染して、浮かれているような雰囲気ごと恨めしく思う。 寒い
SNSの言説に惑わされている友人も、それに話を合わせるしか能がない自分も、金木犀の香りがしなくなった秋の終わりも、何もしたくないような無気力さも、こういう自分の傲慢さも、何もかもにうんざりして、悲しいというより寂しい。 寂しいとか辛いとか、誰にでもあるような感情のはずなのに、何だかそう思うこと自体が悪とされているような気がして、誰を信じたら良いのか、そもそも信じなければ良いのか、傷つきたくなければ期待するななんて、でも期待したいような人は沢山いるし、息が詰まるし、吐いた息は
歩くことが好きだ。 外の空気に触れて、高く青い空を見上げると、何に悩んでいたのかも忘れて、ただ思考の赴くままに脳を空っぽにできる。 人生の意義とか、行動の理由とか、それが何なのか知りたくて、人は人に近づくんだろうけど、多分大した理由なんかは無いんだろう。 最近、ただ気分に身をまかせて行動することが「計画性がない」と評されて、悪とされることが増えたような気がする。 誰もが行ったことのあるような観光地、流行りのファッション、SNSで話題のスウィーツ。 “絶対外れない”よ
桜が咲いている。毎年見ているはずなのに、毎年新鮮に綺麗だと感じる。それは彼らがこの春の一瞬にしか花を咲かせないからだろう。希少性の高いものほど重宝される、どの時代になっても変わらない原理だ。 バイクで国道を走りながら、景色を眺めた。この瞬間だけは、世の中を俯瞰しているような気持ちになる。私はこの世の外側の人間だという、思い込みに浸ることができる。 その思い込みの中では、私は何だってできる。万能感みたいなもの。この世は希望と幸せで満ち満ちていて、私はそこに入って、かけらを拾
見慣れた最寄駅からの景色。何回も読み返した小説を鞄に突っ込んで、階段を小走りに駆け下りる。 何回も読み返しているのに、印象的なシーン以外はからきし覚えていないというのは、つくづく人間の記憶力の貧弱さを感じて悲しくなる。 『あれ、ここの建物なくなってる。』『何だったっけね、ここ。』 昨日友人と交わした会話を思い出す。風景の一部と認識された建物は、消えたところで何の感慨もない。 そういえば、「女は愛された方が幸せ」とのたまっていた文献の名は何だったっけ。「愛された方が幸せ
「ねえ、友達に言われたから会わなかったの? 友達に言われたからそうするの?じゃああなた、友達に死ねって言われたら死ぬの?そんなわけないでしょ? 好きになる人すら自分で決められない人なんて、好きになった覚えないわよ、私。 私、そういうことには長けてるの。見る目っていう点ではね。嘘でも見栄でもないのよ、これ。 そう、見る目だけはあるの。冷静じゃないだけで」
大病を患ってそれを克服した人は凄みとか、人を刺さない気迫みたいなものを感じます。それだけ死の実感というのは人間が成長するに最も手っ取り早い方法なのかもしれません。 こんなことを考えていると、大酒飲みヘビースモーカーの台詞と、ハイライトの匂い思い出します。 「俺は死ぬのが一番怖い」
友人の何気ない一言、久しぶりに吸った外の空気、必要がないと思っていた文房具、明日の予定、気の乗らない飲み会、久しぶりに会う元同僚。 期待してなかったこと、モノに実は救われていることを忘れたくない。今この瞬間も。
「久しぶり、変わらないね」「ごめんね、怒ってる?」「絶対に行こうね」「そういうところが好きなの」「そういうところも好きになっちゃたの」「ありがとう、優しいね」「また今度、連絡するね」「さようなら」
いつか、こんなに好きだったことも、それを忘れようとしたことも、全部忘れてしまうのかしら。その時の私は何を考えているのだろう。隣にいるのは、あなたじゃないんだろうけど。
誕生日おめでとう。私も君も、もう子供ではない年齢になってしまったことに驚いています。時間だけが過ぎて、体は昔に置いてきたような感覚です。 誰かに手紙を書くなんてそうそうないことなので緊張します。ここに書いてあるすべての内容は君に向けたものですが、ほとんどが独り言です。何も思い詰めたり、責任を感じたりしないでください。 私にとって君は、人生の中での重要な登場人物です。私は君の人柄と言葉に何度も救われていて、それでも気取らずペースを乱さない君を少なからず尊敬しています。そのこ
英語っていう科目について、眠れない夜に考えてたんですが、なんとなく終着点が見つかったので綴っておきます。 義務教育の過程で、大体の日本人が英語を習うじゃないですか。そして、本格的に文法とかをやり始めるのは、中学校から。小学校でも遊び半分で曜日とか簡単な単語は習ったりします。けれど、学ぶ、のは中学校からですよね。苦手な方は本格的に苦手になるのがこの時期。 そんで、他の科目もちゃんと学び始めるのって、中学校からですよね。ていうか、「学問の面白さの領域」に触れ始めるのが中学校な