「余裕」のなにか
どうも、学生です。
課題はギリギリで提出してしまう学生です。
そういうとこだぞ。俺。
さて、今回は「『余裕』のなにか」です。
「余裕がある大人」
文字に起こしても、口に出しても、
何とも響きのいい言葉。
その言葉を具体化せずとも羨望の眼差しを向けてしまう。
いや、抽象的であるからこそ、羨ましがるのではないか。と。
もし、「余裕がある大人」という言葉を、
具体化して、言葉を羅列し、整理して、
その内容を目の当たりにした時、
自分の置かれている現状と比べてしまい、
眼差しは羨望から嫉妬に変わってしまうのだろう。
ここまで言った手前、こんな疑問符を打ち出すのは恐縮だが、
「皆さんは、『余裕のある大人』になれていますか?」
私は、こんなことを言っていますから、
当然なれてはいません。
さぁ、こんな人間が文章化していいものかわからないが、
「余裕のある大人」に対して、羨望の眼差しを向けたことが一切ない、
嫉妬オンリーの鋭い眼光で睨み散らかしている人間が
「余裕」を具体化していこうと思う。
「余裕」とは何なのか。
私の現時点での解釈として、
「持続的に有している後ろ盾」というべきだろうか。
お金とか確約した未来とかをここでは指そう。
とか とは言ったが、
思いつくのは、先ほど記述した
「資産」と「確約した未来」の二つであろう。
現時点ではそれくらいしか思い浮かばないし、
今後も思い浮かばないであろう。
それ以外は正直、気晴らしというか、気紛れというか
余裕と見せかけたその日限りのものであると考える。
友人も、いることによる「余裕」はあるのかもしれない。
それも資産に変わりはないし、
何年も変わらずに友人としていてくれる存在であるのならば、
それは、「いつまでも友人がいる」という
確定した未来と言えるだろう。
でも、常にそばにある存在ではないし、
対象は人間であるのだから、概念よりもより一層気紛れである。
しかも、その友人に「余裕」を見せることを考えることなんて
往々にしてあることなのだから、
そう考えれば友人とは、余計に「余裕」とかけ離れたものである。
故に、「資産」と「確定した未来」が「余裕」を形成していると言える。
では、私自身の話に移ろう。
私は現在、「余裕」がない。
全くもってない。
「持続的に有している後ろ盾」は、現在持ち合わせていない。
持ち合わせとしては、
「余裕」がないことによって付きまとうことになった「不安」と、
アルコールのように気を紛らわせるための無茶苦茶な「楽観的視点」
の二つしかない。
この二つは、個々でも厄介なのに、
二つ所有することでコンボスキルが発生しているかの如く、
効力を互いに高め合い、悪影響として我が身に降りかかる。
そして、この二つは、離れることがない。
ある種、呪縛である。
どうすることもできない。
誰かに話したとて、結局その日のその時にしか気が紛れることはないし、
自分で抱え込んでも、ドツボにはまるだけである。
飼いならすこともできない。
さすがに人生に行き詰まりを感じてしまう。
他の人間は最新のゲームですいすいクリアして、
エンディングを見て、次のゲームに移っているのに、
私は、ファミコンソフト、しかも、クソゲーをプレイしている感じ。
到底終わりが見えないし、他の人に羨望まがいの嫉妬の目を向けてしまう。
私は、「余裕」というものを享受できないのだろうか、
はたまた、他の人も「余裕」を持ち合わせていないのだろうか。
もし、前者であったら、私の「余裕のなさ」は何なのか。
どう表現するのが正しいのだろうか。
もしくは、私の今持ち合わせている「不安」と「楽観的視点」は
全て幻というのだろうか。
それならば、いっそのこと、全てが幻であってほしいと願ってしまう。
私自身の存在も。
それすら、叶わない人生なのか。
全部ひっくるめて、私はどこまで行っても「余裕」がない。
今回はここまで。次回も何卒。