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ダンスをご覧ください
白い雲がぽっかり浮かぶ午後四時の空。
日が少し傾きかけた放課後の通学路を、一人の女子高生が歩いていた。
その足取りは、地面に引っ張られるかのように重い。
カツ、カツ、と音を立てるローファーの底が、やけに耳に響く。
表情はうつむき、前髪の陰から見える目はどこかぼんやりしている。
ひとつ、ため息をつく。
「はぁ……」
今日が特別なわけではない。
テストがあったとはいえ、それが全ての原因ではない。
小さな失敗、誰かの何気ない言葉、そして自分へのもどかしさーー
そんな「小さな何か」が幾重にも折り重なり、気づけば心に重しが乗っかっていた。
電信柱の影がにじむ夕暮れ時。
彼女は上着のポケットに両手を突っ込み、トボトボと歩いていく。
「おーい!」
突然、後ろから声がかかった。
「よっ! 今日のテストどうだった?」
声をかけたのはクラスメートのマユだった。
ポニーテールが跳ねながら、軽快な足取りで彼女に近づいてくる。
「あ……うん、まぁ……」
言葉を選ぶように目をそらす。
不意に胸の奥から、先ほど静かに潜んでいた"影"が再び寄り添ってきた。
マユは見逃さない。
「えー? 微妙だった感じ?」
冗談っぽく言いながら、彼女の顔を覗き込むように身をかがめる。
「てかさ、国語の担任のじーちゃん、今日めっちゃおもろくなかった?」
「……え?」
「なんかさ、黒板に『努力』って書いたつもりが、漢字間違えて『勉力』ってなっててさ!」
「うそ……」
「しかもその後、すごいドヤ顔で『これが人生において最も大切なものだ』とか言い出して、クラスみんな笑いこらえるの必死だったから!」
「ははっ……!」
ふわり。
沈んでいた心が、ほんの少し浮かび上がった気がした。
「でさ、ついにカナが声出して笑っちゃって、そしたら先生が『何がおかしい?』とか真顔で言うもんだから、余計に爆笑!」
「うそ、カナが笑ったの? あの子、いつも無表情なのに!」
「そうなのよ! だから余計ツボっちゃって、もう全員アウト。先生は気づかないまま、『これが人生だぞ』ってすっごい真剣な顔で言うの!」
「ははははは!」
彼女はとうとう声を上げて笑った。
その笑い声は通学路に小さく響き、消えていった。
気づけば、彼女の歩みはさっきまでの重々しい足取りではなく、軽やかなステップに変わっていた。
左、右、ちょっとスキップをするように。
ふわり。彼女の心が軽くなるたび、歩みも自然と軽くなる。
マユは止まらない。
「それでね、カナが『もう無理!』とか言いながら顔うずめてさ~」
「うける! 見たかったそれ!」
笑い声が交差するたび、世界の色が変わっていく。
わずかに冷たくなりかけていた空気も、どこか温かく感じる。
笑い声は弾けるシンバル、枯れ葉を踏む音はリズム隊だ。
カツ、トン、カツ、トン。
それは、まるで即興のダンス。
テンポよく踏み鳴らされるローファーに、アスファルトは楽しげなビートを刻んでいる。
「めっちゃ楽しいかも」
ふいに、彼女がそうつぶやくと、マユが振り返った。
「だろ? ほら、もっと楽しく歩こうぜ!」
言うが早いか、マユはわざとステップを踏むように足を大きく動かし、クルリと回転してみせた。
「はい! ステップ、ステップ、ターン!」
「ちょ、恥ずかしいからやめて!」
「いーじゃん! だーれも見てないし!」
くるり、くるり。
彼女も、ついには一緒に足を揃えて軽く回ってみせた。
「おー、いいねいいね! 才能あるんじゃない?」
「ないから! でも、ちょっと楽しいかも……」
彼女はくすくす笑いながら、マユに歩調を合わせた。
彼女の胸の奥にいた"影"は、もういなかった。
並んで歩くふたりの足音は、軽やかに道を駆けていく。
夕日に照らされた影がふたつ、アスファルトの上で踊る。
ひとつは小さくスキップし、もうひとつは少し大げさにターンをする。
だれにも見られない、放課後の小さなステージ。
ふたりの女子高生が、リズムにのせて道を進む。
カツ、トン、クルリ、ステップ。
「ねえ、明日のテスト終わったら、帰りにクレープ食べに行かない?」
「えー、いいけど、どこの?」
クル、クル、カツ、トン。
「決まってんじゃん、あの商店街のやつ! あそこの期間限定チョコバナナ、超うまいらしいよ!」
「行かない理由なし!」
会話の合間に、ふたりのステップは続く。
心が軽やかである限り、足取りも軽やかだ。
誰もいない通学路に、ふたりのビートが響き続ける。
くるくると回る影たちのダンスは、止まらない。
今日という一日は、特別ではなかったかもしれない。
でも、特別な気分になる一瞬は、いつだってある。
歩くたび、踊るたび、心がほどけていく。
そう、だれもが踊り手で、世界はステージだ。
ステージの名は、日常。
いつのまにか青空は茜色に染まっていた。もし誰かが見ていたら、長く伸びたふたりの影は、きっとこう語りかけただろう。
「さぁ、ダンスをご覧ください」