中央線の線路があんなに真っ直ぐな理由【4/11は中央線開業の日】
本日は中央線開業の日です。
1889(明治22)年の今日、東京を走っているJR中央線の新宿~立川間が開業しました。このときは国鉄ではなく、私鉄の甲武鉄道という鉄道会社でした。
今日の雑学は、この100年以上前に敷設された、この路線についてお届けします。
真っ直ぐ走る中央線
この中央線、地図の上から見ると、不思議な部分があります。
東中野~立川間が、真っ直ぐになっているのです。その直線区間の長さは、24.7kmと、本州では最長。
鉄道の線路は、地形や施設などに合わせてカーブしているのが普通ですが、東京のど真ん中なのになぜこれほど真っ直ぐなのでしょうか。
じつはこの直線区間には、意外な理由がありました。
甲武鉄道は、その敷設に際して、多くの乗客や貨物輸送が見込める街道沿いに線路を敷きたいと考えていました。この地区を横断する街道といえば、甲州街道かその北側を走る青梅街道ですね。
こうした考えから、線形が決まっていくのです。
街道沿いの住民が猛反発
そこで、甲武鉄道はまず甲州街道沿いの町村に、ここに鉄道を敷かせてもらいえないかと打診しました。しかし周辺住民は、「汽車から出る煙で肺を病む」とか「飛び散った火花が干している布団について火事になる」と猛反発。さらに農民たちも、「耕地が減って困る」「耕地が分断されると通うのに迂回しなければならなくなって、肥料や収穫の運搬が面倒になる」と、こちらも猛反発でした。
また、高井戸宿のような昔に宿場町だった場所では当時はまだ宿泊業者が大勢おり、「鉄道が通ると旅人に宿場を素通りされて、宿の経営が立ち行かなくなる」と、旅館経営者らが団結して反対運動を展開しました。
甲州街道沿いは完全に無理筋となったので、甲武鉄道は北側の青梅街道沿いに打診しました。ですが、こちらの住民も甲州街道と同様、反対に回ってしまいます。
そもそも、当時の住民は、その大半が町村の外に出る必要がなく、鉄道は生活に必要なものではなかったのです。鉄道の便利さよりも、煙をまき散らしたり、宿場が廃れたりするような負の側面のほうが目立っちゃったというわけですね。
エイヤッ!と定規で決める
街道沿いの激しい反対運動のためにルートが全然決まらないことを受けて、甲武鉄道の首脳部は、ウルトラCとも言うべき次の一手を考えます。彼らは、甲州街道と青梅街道の中間に通す計画に変えました。
当時、その中間の場所は人があまり住んでいない原野でした。住民がいないのであれば、反対運動など起こりようもありませんし、さらに障害物となる施設もありません。したがって、自由に線路を敷くことができるのです。
このときのルート設定について、かつて国鉄で語り継がれていた、荒唐無稽な裏話があります。工事担当者の仙石貢(発案者の服部九一ともいわれる)が、このへんなら何もないからいいだろうとやけくそになり、「エイヤッ」と定規で一直線の赤い線を引いたというのだ。それが路線として採用され、いまの東中野~立川間になったと言われています。(▼仙石貢)
あくまで逸話で、真偽のほどは定かではありませんが、実際に地図を見ると定規で引いたようにきれいな直線ですね。
参考資料:
『全国ユニーク鉄道雑学事典』川島令三(PHP研究所)
『日本の特別地域⑦ これでいいのか東京都中野区』佐藤圭亮、川口有紀編(マイクロマガジン社)
Ⓒオモシロなんでも雑学編集部