他責思考を手放す(思ったより高山)
わたしが食事の片づけをしていると、その人はわたしのものの上に自分の買ってきたものを並べ、買ったものを全部説明している。
まるで、わたしの靴を踏んだまましゃべり倒しているような感じ。
いまは風の時代。自己受容の時代とも言われています。
しかし、わたし自身がいくら自己受容しても、その人はわたしの靴を踏んだまましゃべる。
本人はADHDらしい、小さい頃はよく暴れて友達をケガさせたりした、らしい。でもこちらも、こういう人がいるとあまりよく知らず仲間にしてしまった。
で、一番困っているのは、わたしが病気で苦しもうが何だろうが、自分をわかってくれ、こっちを優先しろ、の一択しか言ってこない。
うちらの世代(50~60代)は、ほとんど全員自己肯定感は高いです。自分が周囲に傷つけられても、必ず助けてくれる人はいたのです。
いまネットで検索しても、「自己肯定感低めな人向けのアドバイス」しか出てこない。
色々な人に聞いてみましたけど、いまの30代くらい以下から、自己肯定感は低いみたいです。理由はわからないですし、褒められまくって育ってもボコボコにされて育っても、低くなっている。
自己肯定感が高いと、なかなか自己受容に辿りつかないのです。自分が相手を傷つけていても、全然気がつかないので。。
子供の頃、わたしはお前が悪いなんて言われたのは数回くらい。以前のお金の話くらいでしょうか。だから自己肯定感がっつり高いです。
他人がわたしを悪く言う時は、たいていその相手に理由があり、こちらにはないです。そして、結局その人は離れていくので、しばらくは落ち込むけど、自分が悪かった、とは思いません。
他人の靴を踏んで平気な人は、毎日靴を踏み、自己主張ばかり繰り返します。最初、わたしが受け入れれば治るのかと思っていたら、変わらないのです。結局、わたしは心を病んで、病み記事を書いてるうち、ようやく気付いたのです。
ああ、これはわたしが、新しい時代へ進むための教えだったのだ。
他人を説得しても変わることはない、そんな時間などない。
自分を磨いて、自らの手で輝きを取り戻せ、と。
他人を説得したり、苦しめられた、と現象を表現する状態って「他責思考」らしいです。つまり、その状態から今すぐに脱出(手放す)しないと、新しい時代に適した状態になれない、幸せな方向へ進めない。
最近みた動画で気づいたのですが、わたし自身も、靴を踏まれたりすることで、不幸を人のせいにしやすい状態になっていた。
自己受容は他人のせいにすることを手放すこと。
つまり、自己主張ばかり繰り返し、人の邪魔をしても平気な人と共感してはいけない。(共依存、になるそうです)
こういう記事を書いておいてなんなんですが、そういう人をネタにしている時点で悪い方に向かっていたのです。
わたしは好きなものがあり、自己実現も出来、研鑽も積み、さらに目標に向かって進む方法も身につけていた。苦手なものにもがんがんチャレンジしていました。
だけど、人の話も聞かず行動をし、わたしが熱を出しても知らんぷりな人を赦し、受け入れることは、本当に難しかった。。
その人をあるがまま受け入れない、ということは、わたしの理想の押し付け、つまり他人のせいにしている、ということ。
よくいう毒親、親をうらんだりするのも、同じからくり、なんだそうです。
わたしは父母がすることに疑問を持ったらすぐ聞いて、話し合っていたので全然恨みもせず、全員貧乏だったのでとなりの芝生も青く見えず、自分の考えに「理想の押し付けがある」という疑問すら、持っていなかったのです。
事実上ヤングケアラー状態でしたが、、不満を覚えた時は直接聞いて、話し合えるって愛なんだな、納得出来ず家を出たけど、こちらに来て、経済より愛の方がよっぽど大事だったことに気づきましたよ。。
最近、記事を書くことが少なくなったのは、自分の中にある、他責を文字にしていないか、チェックしていて、そうだったら発表しない、としていたのです。が、いくつかは、「えっこれも他責なの」ということに気づかず発表してしまっていました。
不幸な目に遭った、という言葉も他責だったとは。。
こういう目に遭ってほしくないから、失敗談として出したものもダメだった。
そんな記事を望まれてないから、じゃないんです。
仕事はすべて自己責任です。他人のせいには出来ません。
エナジーヴァンパイヤのせい、なんて甘い言葉にきれいに引っかかり、自分のせいから逃げだしておりました。。
猛省しております。これからは、真にワクワクすることを中心に書きます。
日本一、いくよー。