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決定を先送りしてしまうからだ
『街場のアメリカ論』(内田樹著・文春文庫)を読んでいたときのこと。
読み始めゆえに、断定的なことは述べられないが、本書の中心論旨からはやや離れていると思われる箇所に面白い記述をみつけた。この箇所は、むしろ本書で考察する対象を見ていく方法論の比喩として述べられた感が強い。
興味のある方は上記書を参照されたい。
さて、その面白い記述箇所とやらを引用してみよう。
「すぐれたアスリートは身体と環境をなかなか決定しないで、決定を先送りする能力がある」(上記書43ページより引用)
たとえばイチロー選手のような卓越した野球選手は、バットがボールに接触する最後の最後の瞬間まで、最適な接触位置を決めるため、バットがずっと揺れているらしい。それでは、バットが揺れているということはどういう意味合いがあるのか。
すなわち、どんな球がきても融通が利くという優れた運動能力の証であるともいえる。ストレートがきてもカーブがきても柔軟にぎりぎりまで対処できる能力(決定をできるだけ先送りできる能力)のことといってもよいだろう。
こうした能力のことを「マイクロスリップ」というらしい。
内田氏自身が佐々木正人氏『ダーウィン的方法―運動からアフォーダンスへ』(岩波書店)から参照されたようだから、少なくともマイクロスリップとは何ぞやということを知る際には同書や関連書籍を参照するなり、ネットを参照するなりするのが適切だろう。
マイクロスリップという概念は上記に挙げたような、アスリートの決定先送り能力(最後の最後の瞬間まで最適な動作をすることができる能力)だけに留まらない、より広義な領域のようなので、ここでは詳細な言及はさておく。
なお、マイクロスリップを理解する際には、どうやら、アフォーダンスという考えを理解する必要がある。
博覧強記の松岡氏なりの個的理解かもしれないが、それでも紹介しておこう。
紙はわれわれに何かを与えているのである。イメージをもたらしているだけではない。われわれに動作を促しているのだ。
この一文だけでは、ぎりぎりまで決定を先延ばしできる能力とどう繋がるのかがわからないかもしれないが。
四捨五入的な大雑把な考えを肯定するのであれば、マイクロスリップとは、端的にアフォーダンスに修正を来たしたときに対応する動作の手続きといっても良いかもしれない。再び引用する。
アフォーダンス理論で「マイクロスリップ」とよばれている興味深い動作変更の手続きがある。たとえばサラダを挟む用具を初めて持とうとしたとき、うまくその用具が扱えないと、ただちにそれを指先が持ち変える。誰もがしていることだ。自動販売機にコインを入れようとして入りにくければ、すぐにコインを持つ角度を変える。
これで、優れたアスリート(イチロー)とマイクロスリップとの関連がかなり明瞭になったはずだ。
こうしたマイクロスリップというのは引用文を参照するまでもなく、われわれの日常にごくごく存在していることも同時に理解できるだろう。たとえば、とても固い蓋を持つ瓶を外すとき、私たちは手の力を増大させるために、手にひねりを加えた形に手の位置を変えているはずだ。もう片方の手も、蓋を外す力が集中できるように手はいつも以上にしっかりと瓶に添えられているはずだ。
ところで、対応能力(マイクロスリップ)に関しては個体差があるのかもしれない。
誰しもがイチローのような能力を保有しているわけではない。
しかし、どのアフォーダンスかによって、マイクロスリップの能力も人によって異なるだろうし、ゆえに、個体差については一切気にする必要もないし、マイクロスリップは経験(慣れ)によって補える部分が大きいはずだ。
たとえば、自動車の運転などがそうだろう。
考えてみれば、発進して適切なレーンを走行し、適切な箇所でブレーキをしたり曲がるだけでも大変なことだが、運転に慣れてしまえば、不意な事態が起きても、各人が持つマイクロスリップがうまく対応してくれる。
サーキットというアフォーダンスに接していれば、サーキットでのマイクロスリップが適切に行なわれやすいだろうし、勝手の知っている道路というアフォーダンスであるならば、まったく通ったことのない道路よりも、適切なマイクロスリップが発揮できるだろう。
さて、自動車の運転に関する例を最後に持ってきたが、アフォーダンスの理論により、自動車の運転環境に資する面が多いのではないかという希望を私は抱いている。
或いは既にアフォーダンスという認知の考えは自動車工学等で取り入れられているかもしれない。
最近の電子デバイスの氾濫に関しては、マイクロスリップの自動化として捉えられるかもしれない。そうした傾向については良いものだと私は思うが、やはりスポーツなどでマイクロスリップが重要な要素を果たすように(私がはまっているテニスもそうだ。出来る限りぎりぎりまで軌道修正できるようにすれば、もっと上達するはずだ)、最終的には人間自体のマイクロスリップという秘められた可能性を開花させる方向を私は支持したい。
人間自体の適応性を高めて、さらに電子デバイスによる適応性の自動化がなされれば鬼に金棒ではないか。