
上を向かない人間の落としどころとしてのスイフトスポーツ(クルマの話題のないクルマの話)
ここのところ、老いや死のことをよく考えるようになりました。
若い方には30代くらいに見られるようなのですが、48才でございます。
まだまだ不惑の年代ではありますし、体力が著しくなくなってきたというわけではないのです。ただひたすらに考え方が右肩下がりの線の如くになってきたということです。
いや、もともと老荘の境地に憧れる傾向にはあったのですが、そして、現今の資本主義に対する懐疑や不満の念をずっと抱き続けること三万年だったわけですが。
現行の社会を見る限り、生活のために働くという私が子供の頃から抱き続けてきた疑念を増幅させるような状況になってきています。いや、仕事を否定しているわけではないのです。ただ、私は仕事は精神安定のためにやるものだと思っていて、生活の糧としてやることが一義であると考えると、息苦しくてならないのです。といって、金銭的に富者であることについての強い欲望はありません。まったりと暮らしてなんとなく幸せを看守しつつあれば良いのではないかと思うのです。
お金がゼロになってもいいではないですか。今や懐かしい蕩尽論の考えに従えば、蓄積された富は使い果たすことで人間に快楽を与えるものとされていますし、懸命に働いて満足のいく経済生活を送っているという人が私の周りにはいないんです。むしろ、そういう観念から自由である人の方が経済的にも豊かであるように思えます。投資も良いと思うのですが、稼ぐための投資には関心がありません。投資先に対して心から応援してあげたいという一体感が無ければ、別段にやろうともしません。
今後の私の生き方は益々、浮世離れした、と言いたいところですが、増税だのインフレだのと右往左往している世相を見る限り、生活というものとはなんぞやということが根源的に問われることになりそうです。お金が増えてどうするんですか。失う不安も増すような気もします。
私はスイフトスポーツを二台持つ選択をしました。
加えて、インプレッサも所有しています。近々、ボディの一部を新品にします。
それはさておき、運転の楽しみその他諸々の理由があるのですが、思想的にいえば、最後の中産階級的イコンのように思えたという理由もあります。スイフトスポーツよりも高いクルマでも買えます。しかし、なまじっか、安い型落ちの中古車で楽しむという環境に慣れすぎてしまったせいか、クルマというものが大方の庶民にとって遠いものになった時点で、私にはなんらの魅力も持たないものとなっています。中産階級が買えるクルマがたくさんある中では、スーパーカーや高級車があってもいいと思います。しかし、いまは(私にとっての)チンケなクルマも容易ではないプライスタグを付けていますし、そんな状況下で(私にとっては)魅力とも思えない高額なクルマを買う気にはならないのです。
もっとも、これは思想的で思弁的なものでして、実際のところは、そんな思想からの転向も容易に行われれることでしょう。それくらいに節操はありません。ただ、常に上へ上へという指向性は昔から馴染みがないですし、私には興味が湧かないのです。萎えるのです。
これから先、どれほどの期間を生きるのかはわかりませんが、子供の頃にバブルエコノミーも見てきましたし、金銭を媒介とした価値基準に対しては、好き嫌いというより、信頼が置けないのです。
さ、ポルシェが欲しいぞー
でも、964辺りかな。
アルファロメオがいいねー
でも、145とか156あたりかな。
やはり、過去を向いてしまう。
老いや死を意識することは過去回帰ではない。でも、未来に浸ろうと思うクルマとはなんだろうと考えたときに、今のところはスイフトスポーツになってしまうんですよね。
無論、大いなる私見でありまして、夜中にふと気が向いてスマホでダラダラと文章を書き連ねているだけでございます。
いや、しかし、リビドーのような強力な欲が無い。
〜したい、〜であってほしい、という欲はあるものの、それは苦痛からの逃避であり、私が心からワクワクするものではないとするならば、私にはワクワクさを掻き立てる何かをどこかに置き忘れてきてしまったのかもしれません。
かようにネクラなことを書く私ですが、それは私の一面であって、一つのペルソナに過ぎません。
では私の実相とはなにか。
ここからは、オンラインサロンで大いに語りたいと思います(爆)