リメンバー・ほとけのよっちゃんした夜
父方の祖父はめちゃくちゃ優しい人だったらしい。
らしい、というのは周りから聞いた話だからで。祖父は幼い頃に天国に行ったから、祖父が優しい人だったのかどうか、正直あんまり知らない。
1. ありがたい命名
祖父は高野山で建具職人をしていた。
かの有名な、高野山金剛峯寺の建具、ふすまや屏風を作ったり修繕したりしていたらしく、わたしたち姉妹の名前は、祖父が金剛峯寺から貰ってくれたありがたい名前だと聞かされて育った。
ありがたい名前なはずなんやけど。
なぜか、まぁまぁ残念な目に合う。
職場から貸与されるPCが初期不良を抱えているのは、あるあるすぎてもう慣れたし、何度だって鳥のフンが降ってくる。ネズミ花火で遊んでいたら花火の端くれが火の玉になって跳ねて飛んできて、口にピットインしたこともある。
どんな確率よ。ってことが度々この身に降りかかる。
中学の時のソフトボール部の顧問がわたしの名前を調べてみたらしく、それ自体もなんかよくわからんけど。そしたら、ひと文字目もふた文字目も、「なぜ」、とか「なに」とかいう意味だったらしく、「オマエはなぜなに人間か。」とかわけわからんことを言われたのを思い出した。
え、そういうこと?
おじいちゃん、わたしの命名やっちまったん?
2. 建具職人だった祖父のこと
祖父は、その類稀なる優しさから、ほとけのよっちゃんと呼ばれていた。
ほとけのよっちゃんはわたしが2歳の頃に癌を患い、手術をして、しばらくしてから高野山を降り、わたしたちの住む京都に移り住んだ。
だけど、それから入退院を繰り返していたらしく、わたしは幼かったのもあって、祖父と過ごした記憶がほとんどない。
障子を張る真似事をさせてくれたことと、膝の上で食べたバナナ、熱燗をちびちびやりながらほじくっていた鯛の尾頭付き、そして病院のベットの上であーんしてもらっていた流動食。
覚えているのは、このよっつだけ。
だからタイムマシンがあったら、大人になったわたしで、ほとけのよっちゃんに会いに行きたいなって思う。
ほとけと呼ばれるほど優しい祖父と、2人で酒を飲み交わしたい。
3. わたしの中のよっちゃん
ある日、祖父は自分の大切な仕事道具を使って、わたしに障子はりの真似事をさせてくれた。
ノリっぽいものをローラーにつけて、コロコロして、その上に紙を置いて貼り付ける、簡単な作業。祖父がわたしの手を持ってくれてコロコロした。
祖父は、保育園に通うか通わないかくらいの幼子に簡単な作業をさせて、とにかくわたしを褒めちぎった。
めちゃくちゃ上手。ななは才能がある。建具職人が向いてる。とかなんとか。
とにかく思いつける限りのあらぬ褒め言葉をこれでもかというほど並べ立てて、べた褒めしてくれた。
祖父が元気に長生きしていたら、わたしはおだてられて建具職人になっていたかもしれない。
ある日、夕方に祖父母の家を家族で尋ねた。おかずのお裾分けにでも行ったのかな。子どもがはらぺこでも、母は義両親の用事を優先するひとだったから、その日もわたしたち姉妹は、はらぺこだった。
そして、小さなダイニングテーブルに置かれていたバナナが、はらぺこ姉妹の目に留まる。
「バナナがあるー!!」
「ほんまやバナナがあるー!!」
姉とふたりバナナに釘付けになり、バナナを食べていいか母に懇願した。
けれど母は厳しかった。「もうすぐごはんやのに、なにいうてんの。」
的な感じであっさり却下された。
なぜかというと姉はともかく、わたしは今の姿からは想像がつかないくらい食が細かったから。夕食前にバナナなんか食べてしまったら、ごはんが食べられなくなるのが目に見えているからなのだ。
食べたいー!あかん!の親子のやり取りに、リビングでテレビを見ていたよっちゃんが、すぐさま割って入ってきた。
「食べたらいい!おじいちゃんがいいって言ったらいい!」
わたしの中では、ほとけのよっちゃんが1番輝いていた時だった。
みたことない、強いよっちゃん。母を一発で黙らせた祖父は、はらぺこ姉妹にとって、間違いなくほとけのよっちゃんだった。
実はわたしは当時、よっちゃんがあんまり好きじゃなかった。どちらかというと、というか完全におばあちゃん派だった。
理由は匂い。よっちゃんが頭につけているポマードの匂いが超絶に苦手で、嗅ぐだけでちょっと気分が悪くなるくらいだったから、ほんとうにそれだけの理由で、この世のものとは思えないほど優しいという、ほとけのよっちゃんを、地味に避けていた。
もったいなすぎる。
なのに、この日だけは、いつものおじいちゃんがわたしにとっても「ほとけのよっちゃん」になった。
そして、わたしはよっちゃんの膝の上でバナナを食べた。それはなんだか、バナナを食べさせてもらえない危機を救ってくれたお礼というか、幼いわたしなりに気を遣って、祖父に甘えておいた方がよさそうだという「あざとい」気持ちから。
でもやっぱり匂いがキツくて、おいしいバナナはポマード味になった。
いつかのお正月、祖父母の家でみんなで揃って豪勢な食事を食べた。鯛の尾頭付きがドーンと中心に置かれ、ハレの日の食事をみんなで囲んだ。
皆が食べ終えてリビングに移動しても、祖父はひとり熱燗をちびちび飲みながら鯛をほじくっていた。そしていつも皆が食べ終える頃にようやく着席し、残り物を食べる母の隣で、鯛をほじくる祖父を見ていた。
祖父の熱燗がなくなりかけると、母は席を立ち、アルミホイルを被せたトックリを温めて、持ってくる。母が食べ終わっても、祖父はちびりちびりとひとりで飲みながら、鯛をほじくっていた。テレビもラジオもない部屋で。
父はバレンタインにあげたウイスキーボンボンを一粒食べて、「くう〜っ」とか言って真っ赤になるくらいの正真正銘の下戸だったから、祖父はいつもひとりぼっちで飲んでいた。
わたしが社会人になって、出張先の高知で日本酒「酔鯨」を飲ませてもらって酒の味を覚え始めたとき、最初に会いたいと思ったひと、それがほとけのよっちゃんだった。
もしのび太みたいにタイムマシンで過去に戻れるなら、あの日、鯛をほじくりながらひとりでちびりちびりやっている祖父の前に座って、お酌しながら、祖父と話がしたいなと思った。
大人になったわたしと、まだ元気な時のほとけのよっちゃんと、鯛をほじくる。
いいよね。
祖父がいなくなって、鯛の尾頭付きはわが家の正月から姿を消した。鯛、楽しみにしていたのに。来年のお正月は、鯛が手に入ったら焼くことにしよう。
祖父が入院生活を送るようになってからは、病院の夕食が出てくる時間帯を狙って、よく母と2人でお見舞いに行った。
その頃の祖父は、わたしのことはわからない日が増えていて、食事も嚥下障害のためなのかトロトロのごはんだった。
そのトロトロのごはんを、母がスプーンで上手にすくって祖父の口へ運ぶ。
祖父は口を開いてそれを飲み込む。その繰り返しを、側に座って見ていた。
「それは結構」
オレンジ色のトロトロを運ぶ母の手を、突然祖父が拒否する。
急に「それは結構」なんて言うから、3人で、「これ嫌いなんー!?」と病室で大笑いした。
なにがおもしろかったんやろう。
もう全然話さなくなっていた祖父が、喋ってくれたのが嬉しかったのかな。
こうして書いてみると、あまりにも小さなことに見えるやり取りが、わたしの心に残っている。
祖父はそれからしばらくしてホンモノの仏のよっちゃんになってしまったから、わたしのなかの祖父の記憶はこれだけしかない。あの時に覚えた「般若心経」は今でも唱えられるのに、祖父のことはこれ以上覚えていない。
あれが小学校2年の秋で、忌引で秋の遠足に行けなくなって、行ってもない遠足の絵を想像で書かされてガッデムだったこと。そういうしょうもないのは覚えているのにな。わたしの記憶の取捨選択ってどうなっているんだろう思う。
4. リメンバー・ほとけのよっちゃんした夜
父がまだ元気だった時に、両親と姉と、まだ赤ちゃんの娘と5人だけで、入院中の母方の祖母のお見舞いに行ったことがあった。
その帰り、実家で夕食を食べた後、なぜか姉が「ほとけのよっちゃんのこと教えて」とソファに座る父と話しはじめた。
父は祖父がどんな人だったのか、どんなふうに戦争から生きて帰ったのか、人は死んだらどうなるのか、なんかを色々と話してくれて、姉と父の話を、わたしは何となく、ぼーっと隣に座って聞いていた。
「よかった、話が聞けて。お父さんからこういう話、ちゃんと聞いておきたいと思っててん」
父が話し終えると姉が、そんなことを言った。
え、なんで?
姉はなぜ突然、祖父の話を教えて欲しいと思ったのか。
こういう話を聞いておきたいと思っていたのか。
姉の考えていることはわたしにはよくわからない。
でも、なんか姉が聞いてくれて、よかった。
だって、父もいなくなった今、ほとけのよっちゃんのことを語れる人はもういない。リメンバー・ミーみたいに、子孫に語り継ごうにも、わたしの中のオリジナル記憶「ポマードバナナの話」や「それは結構」を話しても絶対ちんぷんかんぷんで、なんのこっちゃだろうし。
わたし自身がリメンバー・ほとけのよっちゃんで出来ていないから、全然語り継げない。
だから父が元気なうちに、祖父のことを少しだけど教えてもらって、わたしの中のほとけのよっちゃん像が少しだけ鮮明になってよかった。
でもぼーっと聞いてたから、子どもらに語れるくらい、そして子どもらが子孫に語り継げるくらいの深さでは、正直あんまり覚えてないや。
それでも、父からあの時教えてもらっていたこと、「人は死んだらどうなるのか」という、少しだけかじった仏教の教えは、それだけはなぜかよく覚えていたから、父が死んだ時には少し救われた。
父がこれからどんな旅をするのかを知っていたから、父がいなくなって悲しいばかりじゃなくて、「お父さんこれから大変やな、、頑張れ。ファイティン。」っていう気持ちだった。
お別れ、より見送りに近かったと思う。
高野山出身の檀家やから、ちょっとは弘法大師さんにあの世で口聞いてもらえて、優遇してもらえたらいいなーなんてセコイことを考えながら見送った。
煩悩の塊のわたしの脳みそ。
わたしもこの名前が、向こうの世界に渡る時に役立っちゃうかもな。
「弘法大師さんのお弟子さんから名前を頂戴したものです」なんて言えばいいことあったりして。
来年の除夜の鐘では、この煩悩を洗い流したい。
人には必ず死が訪れる。
そして厄介なことに、それがいつなのかを事前に把握することができない。
わたしが人生を見直すにあたっても、自分の死が、いつ、どんなふうに訪れるのかさえわかっていたら人生設計がもっと簡単になる気がするんだけど、残念ながらそれはできない。
だから元気なうちに、大切な人と一緒に生きて、記憶を共有して、自分の中で大切にしていけたらいいのだけれど、なんでなのかだいたい忘れてしまうし、気づいた時には大切な人は、この世からもういなくなっていたりする。
そんなときは、大切な人のことをよく知るひとから、そのひとの中にある記憶を共有してもらって、その人の記憶をもって追加リメンバーするのがいい。
わたしは祖父のこと、追加リメンバーし損なってしまったけど。
この年末年始に家族が集まったら、みんなでリメンバー・〇〇したいなと思うのでした。