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風化させてはいけないカンボジアの凄惨な歴史と今

世界一周2カ国目・カンボジアを訪れた。

カンボジアは凄惨な歴史があることをご存知だろうか?
恥ずかしながら、私はその歴史を知らずにいた。

訪れるにあたり、いろいろと歴史を調べていくと凄惨な歴史があることを知った。
とにかく入国前も出国してからも、考え事・学びばかりの旅となった。

今回はこの旅を経て、感じたこと・考えたことを綴ろうと思う。


国境で待っていた光景

2024年9月23日(月)初めての陸路での国境越え。
タイ・バンコクからバスでカンボジアに入国した。

タイの出国ゲートでは、たくさんの学校帰りの子どもたちの姿があった。
「なぜこんなところに子どもたちが??」と疑問でいっぱいだった。

そして、無事にタイを出国。
入国の際に賄賂を要求されるなどの噂があるカンボジアへ。

カンボジアの入国ゲート

噂に聞いていた賄賂要求はなく、アライバルビザ(30ドル/人)を取得し、無事にカンボジアへ入国。

そして、驚くべきことに先ほどの子どもたちも私たちと同様、タイを出国・カンボジアに入国していた。

恐らく、子どもたちはカンボジア国籍でタイの国境近くの学校に通っているのだろう。

何より、入国して驚いたのは子どもの多さだった。
数台のバスにたくさんの学校帰りの子どもたちが乗っていた。

物珍しそうに私を見つめ、私が手を振ると子どもたちがニコニコと手を振りかえしてくれた。

「あ、よかった。この国は今は明るい国だ。本当に良かった。」
それが私のカンボジア入国してすぐに受けた第一印象だった。

実は私は、入国直前までカンボジアの歴史を調べていた。
あまりにも凄惨な歴史に、気持ちが沈んでいたからこそ、たくさんの子供達が笑顔で出迎えてくれたことにホッとした。

あまりにも凄惨なカンボジアの歴史

カンボジアの歴史をご存知だろうか?
貧困の国・子どもたちが学校に通えない国・様々なボランティア団体が学校を作っている国…などそんなイメージが強いのではないだろうか?

カンボジアで見かけた学校

私も、今回訪問するまではなんとなくそのようなイメージをもっていた。
でもカンボジアを訪問するにはカンボジアの歴史を学んでから訪れたい。
そう思い、改めて歴史を学び直した。

どの歴史のピースも決して外せないのだが、とくに知っていただきたいことを記載する。

実は、今からたった50年ほど前の話。
1975年〜79年に掛けてカンボジア政府(ポル・ポト政権)による民間人の大虐殺が行われた。

当時のカンボジア人口800万人のうち、ポル・ポト政権の政策による死者数は300万人と想定されている。

一連の歴史を知ることができる場所@プノンペン・トゥールスレン虐殺博物館

ポル・ポト政権が樹立された背景

1973年、パリ和平協定が結ばれベトナム戦争が終結。アメリカはカンボジアから撤退。その影響を受け、当時カンボジアを支配していた親米派のロン・ノル政権が倒れ、新たにポル・ポト政権が樹立された。

当時のロン・ノル政権は、アメリカから多大な援助を受けていたため、それを横領し私腹を肥やす役人などが増え、政府が腐敗していた。前政権の汚職や腐敗が、ポル・ポト率いる共産主義政党が政権をとれた背景にある。

ベトナム戦争とカンボジアの関係性についてもぜひ調べていただけると幸いだ。

ポル・ポトは何を考えていたのか?

ポル・ポトは「原始共産主義」を掲げていた。
つまり、原始時代と同じ自給自足の時代に戻すことで、国民みんなが平等になると考えていたのだ。

原始時代の社会に戻すためには、資本主義の考え方や都市文化を徹底的に破壊する必要があった。そのため、都市部に住む人(新人民と呼ばれた)は、農村部に強制的に徒歩で移動させられ、農民たち(旧人民と呼ばれた)とともに集団強制労働を強いられた。

そうして、首都・プノンペンはゴーストタウンと化した。

さらには、原始時代には「存在しなかった」として、「貨幣」も全て没収・国家機関や病院・学校・宗教施設も全て破壊された。

何よりも一番恐ろしいのは、「知識や教養は不要だ」という考え方だ。
当時、知識人とされた医師や教師、技術者などは全員処刑された。

また、知識人がどうかの判別がつかなくなると、本を持っていたり、メガネや時計を身につけているだけで知識・教養があるとみなして処刑した。

一家の1人を処刑すると後に残された家族が反逆者になる恐れがあるとして、年齢や職業に関わらず、一家丸ごと処刑されたのだ。これにより、
多くの乳児・子どもも処刑されている。

多い日は1日300人が処刑された処刑場@キリング・フィールド・プノンペン
左の木は、赤ん坊の頭を打ちつけて処刑したキリングツリーと呼ばれる木。

さらに、処刑や拷問を実行していたのは、ポル・ポトが洗脳した8歳から10歳の少年たちだった。

また、食料不足により飢餓で苦しんで亡くなった方も多くいる。

より詳しく知りたい方は、「トゥールスレン虐殺博物館」「キリング・フィールド」「ポル・ポト政権」などと調べていただけると幸いだ。

「生きる」それがどれだけ尊いことか

前述したような凄惨な歴史を知ってカンボジアに入国。
「一体どんな国なのだろう?」と正直、不安と恐怖でいっぱいだった。

でも、カンボジアに入国して待っていたのは、多くの子どもたちの明るい笑顔だった。

カンボジア滞在中は、本当に多くの子どもたちの自由で元気な様子を目の当たりにした。

手作りのバレーコートでバレーを楽しんだり、
みんなで鬼ごっこをしたり、
自転車で二人乗りをして競争をしていたり、
時にはスマホゲームで遊んでいたり。

学校の校庭で自転車で遊ぶ子どもたち

無邪気に笑う、楽しそうなあの笑顔はしっかりと脳裏に焼き付いている。

元気な声で声をかけてくれた子どもたち

さらには、家族や友達と多くの時間を共有しているのだろうという印象を強く受けた。

家族とお店が一緒に移動中

時代が進み、経済成長や発展も期待される昨今であるが、
何よりも「生きている」「家族や友達と一緒にいられる」
それこそが1番大切なのではないか?と痛感した光景だった。

今の日本では、子どもたちが外で遊ぶことについても様々な規制がある。
「ボール遊びは禁止」「二人乗りは禁止」
しまいには「子どもだけで外で遊んではいけません」など。

また日本の多くの親は朝早くに出勤し、夜遅くまで残業。
「子どもが起きている姿は、週末だけしか見られない」という話もよく聞く。

そんな日本の生活が当たり前だったからか、目の前に広がる光景が愛おしくて、羨ましくてしょうがなかった。

「一昔前の日本の日常風景はこんな感じだったのかな?」
そんなことを考えながら、カメラのシャッターを切っていた。

カメラを見つけて自転車の技を見せてくれた少年
※ブレブレでごめんね少年※

各国の社会背景・時代・状況によって、
「幸せの定義」は異なるのかもしれない。

それでも。

「生きている」
「自由がある」
「一緒に時間を共有できる人がいる」

それだけで。

本当に「幸せ」で「有難い」ことなのだ。

希望に溢れた若者たちとその裏側

1番驚いたことは結構多くの若者が「英語」が話せるということだった。
凄惨な歴史により当時の知識人が処刑されたため、教育環境は厳しい状況にあるのだろう、と勝手に想定していた。

しかし、実際には現地の若者と英語で会話をすることができた。むしろ私の英語力が不足していて、コミュニケーションが上手くいかなかった場面もあった。

調べたところによると、現在のカンボジアでは英語教育は義務教育となっている。日本を含む海外からの支援により教育環境が整備され続けている。

私を含む多くの日本人は恵まれた教育環境にあるにも関わらず、英語を話せない。一方で、教育や学校という形態が崩壊した国の子どもたちが英語をスラスラと話していた。

・洗濯カゴの上で一生懸命勉強していた男の子
・バイク屋さんのお父さんと私たちを英語で通訳してくれた男の子
・シェムリアップの飲食店の気さくなスタッフみんな
・プノンペンのご飯屋さんで日本語と英語で話しかけてくれた男性
・ベトナムの水上村のガイドさん

印象に残っている方たち

ご本人たちはもちろん、そのご家族は子どもに教育を受けさせるために、計り知れない努力をしてきたのだと思う。
日本と同様、英語が話せると就ける職の選択肢も広がるらしい。


50年前にほぼ全ての学校が政府によって破壊され、75〜80%もの教師が政府によって殺害された。

カンボジアの教育分野はたった50年前に崩壊したのだ。そして未だ、その影響は続いている。教員の不足や英語を教えるための研修を受けた教師が不足している。そして、現在の大人たちのほとんどが幼い頃に十分な教育を受けることができていない。

そのような社会・時代で生まれ育ったにも関わらず「なぜ英語が話せるのか?」と35歳の男性に聞いてみた。

独学で英語を習得したガイドさん

その男性は「本や教科書では勉強していない。とにかく外国人と話して覚えた」と話していた。その男性は今、外国人向けの水上村のツアーガイドをしている。

凄惨な歴史にも屈せず、
着実に、
前に、前に、 
進んでいこうとする人たちの姿があった。

そして、私には彼らの目が希望で溢れているように感じた。

山積する課題とカンボジアの未来

1週間のカンボジア滞在で感じたことは、ポジティブな側面だけではない。カンボジアはたくさんの課題や問題が山積していることも痛感した。

首都・プノンペンの路上には、隣国タイ・ベトナムとは比較できない程のゴミが溢れかえっていた。そして、その路頭で子どもがいる家族が生活していた。
農村部では、今にも崩壊するのではないかというような廃墟のようなところに住んでいる家族もいた。

小学生くらいの年齢の子供たちが、路上でいろんなものを販売していたり、捨てられているゴミの中から売り物になるようなものを探している姿も見た。

明らかに、幼い子どもたちが至るところで働いていた。

繁華街で物を売る子どもたち

とにかく、「貧困」は大きな課題だと痛感した。

「貧困の状態を彼らがどのように抜け出すか?」
これはとても難しい問いだと思う。

  • 勉学に励み給料の高い職種に就く

  • 何か商売を始めるために初期投資として借金をして店を始める

  • 海外に働きに出掛ける

いろんな選択肢があるように感じるが、貧困層の家庭では、おそらくどの選択も難しい。

まずは学校に通うことが難しかったり、住所がないため信用がない。
そうするとお金も借りられなければ、海外渡航も難しいだろう。

現地の人が教えてくれたのは、学校の授業料は無料だが、学校に通うための制服代や文房具代などのお金がかかるそうだ。

さらには親はお金を稼ぐために、子どもを労働の担い手として考えている家庭も多いという。そのため、多くの子どもたちが楽しく遊んだり、教育を受けたりする機会が奪われてしまっている。

つまり、負の連鎖が起き続けているのだ。

また、子どもたちが幼い頃から窃盗をしているという話も聞いた。
実際に私たち夫婦も、カンボジアのマッサージ屋にて、施術中に夫のバックをヘアピンで切られて窃盗未遂にあった。

ヘアピンで破かれていたバック

『「お金を得る方法」は、一概に「働くこと」だけではない』ということを、幼い頃から様々な形で学んできているのだろうと感じた一件だった。

また、それらの犯罪を取り締まる政府や警察の社会的機能も、凄惨な歴史によって崩壊し、未だ十分ではないのだろうと推測する。

長文になったため、ここでの言及は断念するが、シアヌークビルや中国とカンボジアの関係についても調べていただけると幸いだ。

中国一色になっている街・中国企業が建設途中で放棄した廃墟ビル@シアヌークビル

カンボジア国内の課題、そして諸外国との関係性。
カンボジアを取り巻く課題は山積している。

さいごに

今回カンボジアに1週間滞在を通して、本当にいろんなことを考えた。到底、1週間では足りなかった。

教育環境も見てみたかったし、いろんな現地の話も聞いてみたかったな〜というやりきれていない旅でもある。

でも、まずは足を運んでみて良かった。そしてただの観光ではなく、しっかりと歴史を学んでから訪れて本当に良かったと思う。

これまで漠然と「カンボジア=貧困の国」だと思っていたけれど、その歴史的背景を知ったことで、この旅で多くのことを学んだ。

・日本と東南アジアの歴史的関係
・歴史を学ぶ大切さ
・いろんな出来事が重なり、この悲劇を招いてしまったということ
・政治を国民がしっかりと監視することの大切さ
・正義は人によって違ったということ
・日本の教育環境がいかに恵まれているか。そしてその恵まれている状況に気づいていない日本人が私を含め多いのではないか?
……などなど。

私が気づいたことのほんの一部

気づいたこと・学んだことが、書ききれないほど沢山ある。

そして、実際に現地を訪れた私ができることは、カンボジアの歴史と現状を発信することだと思った。

言葉や文字で伝えることはとても難しく、誤解を招く恐れも大いにある。
それでも「この歴史を繰り返してはいけない」という博物館での言葉が頭を離れなかった。

慰霊塔@キリングフィールド

だから、こうやって記事を書いている。
どうか多くの人に届きますように。

この記事をきっかけに、Youtube等でもっと歴史を調べてみるなり、自分なりに頭の中で考えてみるなり、現地に足を運んでみるなり、実際に寄付やボランティア活動をするなり…

その人にあったカタチで、次の行動に起こしていただけたら嬉しいなと思う。

そして、カンボジアという国はもちろん、日本や諸外国の歴史や社会に興味や関心をもつ人が増えたら何よりも嬉しい。

カンボジア・トンレサップ湖に住むベトナム系難民の子ども

まずは「知ること」「学ぶこと」。
全てはそこから色んな気づきの扉が開いていくと思う。

このカンボジアの凄惨な歴史は風化させてはいけない。
そして、この事象単体を把握するのではなく、
この凄惨な歴史の「前後」に何が起きたのか?

その歴史の前後を知りたい!と思っていただける、
そんなきっかけに、この記事がなっていたら幸いだ。

まだまだ続く旅も、歴史から学べることがきっとたくさんあるだろう。

私がこの時代に20代である理由。
そして、世界旅行をしている理由。
こうやって記事を書いて、世界中に発信している理由。

改めてこの世界旅行を通して、私が生きている理由・意義を見つけて、しっかりと考えていきたいと強く思ったカンボジアの旅だった。

子どもたちの笑い声で溢れているカンボジア

「生きている」「自由である」「一緒に時間を共有できる人がいる」
ただそれだけで本当に幸せなこと。

当たり前の毎日に感謝することを忘れちゃいけないですね。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございます!

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