けむり
私はタバコを吸わない。
ヒドい匂いがするし、二日酔いといっしょに身体にまとわりつかれた日には最悪の気分になれる。
でも今日はそんなものでも、とにかく口にくわえていたい気分だった。
ちいさな箱をすこし傾けると、世界でいちばん運の悪いタバコがいきおいよく飛び出した。
もうすでに大のタバコ嫌いに吸われる覚悟ができているというのか。
慣れない、ぎこちない手つきで火をつけてみる。
口にくわえて、おそるおそる吸いこんだ。
肺がけむりに満たされると、なんだか頭がもやもやして目の前の景色がゆらゆらと揺れはじめる。
その瞬間、こみ上げる衝動にたえきれずに思いきり咳こんでしまった。
「……やっぱりな」と思った。
独特の苦いかおりが私の鼻をくすぐる。
ピンク色のかわいらしい箱をつまみ上げて中をのぞき込んでみると、残り一本が申し訳なさそうに隅にころがっているだけ。
一パック三百円ほどの、どこにでもあるちっぽけな嗜好品。
だけど彼女との最後のつながりのような気がして、とても捨てる気にはなれなかった。
……だからかわりに吸おうと思った。
彼女は私とちがってヘビースモーカーだ。
いつもきまって
「ごめんね?」
と言いながら、ちらりと目配せをする。
それから口をとがらせて、ため息をつくついでにけむりを吐きだす。
横を向き口をとがらせるのは私に直接けむりを吹きかけまいとする、彼女なりのやさしさだったのかもしれない。
そのためか私たちは目線をあわせて話をすることが極端に少なかった。
端からみれば奇妙な光景だったにちがいない。
ちょっとした誤解につながることも、たびたびあった。
ある時も見知らぬカップルの片方がすれ違いざま、
「みて。あのひとさ、今フラれてる最中なんじゃないの?」
と冗談交じりに漏らしているのを聞いた事がある。
そう思われてもしょうがないかもしれない。
大好きなタバコの煙を味わっているときはいつも、彼女の焦点は定まっていなかった。
この箱庭の外側を眺めている彼女。
その一方で何も言わず、じーっとみつめている私。
そんな時間が私たちの会話の大部分を占めていたからだろう。
正直なことをいえば、彼女の喫煙姿をみることで私はなんだかホッとしていた。
彼女がうわの空になれる時間を作ることができるのならば、それだけで満足だったからだ。
それ以外の彼女をみるのは、実際すこし、心が痛む。
いつもヒドく何かに追われている子供みたいにもみえるし、かと思うと、目の前から忽然と消えてしまいそうな乾いた表情でわらった。
そんなとき彼女はなぜか饒舌になる。
私が知りたくもないことまで喋りつくすという暴力を際限なく繰り返すのだ。
そして家族の元へと帰っていく。
一緒にいたいと思う人のことは、できるかぎり知りたいと思うんだろう。
世間一般の感覚はそれが正常だ。
だけど不思議なことに、好きになればなるほど彼女のことを知りたいという欲望は消え失せていった。
彼女との微妙な距離感が私にはとても心地がよかった。
———私たちは恋人ではない。
だから頼まれれば「愛している」と嘘をつくことができた。
「ねぇ、わたしのこと愛してる?」
行為が終わると彼女は必ずこの台詞を口にした。
まるで助けを求めるかのように私の腕へ抱きついてくる。
「うん、あいしてるよ。」
音声に合わせて機械的に口を動かすのが、私にとっての常だった。
「……嘘ばっかり。」
いつも同じ質問をするとわかっているのだから、毎回ちがった鍵をためして彼女の胸の奥を探ってもよかったのかもしれない。
たとえどんな答え方をしても、彼女から合格点をもらえることはないだろうな。
それは私が痛いほどよく知っていた。
いつだったかを境に二度と彼女にその質問をされなくなった。
何故なのか———どうしても思い出せない。
無理矢理に思い出そうとすると、頭の中は真っ白なのにかってに涙がでた。
「私たちって何でこんなことしてるんだろうね?」
ある日ふと、おそらくお互いにとって根本的な疑問が口をついてでたことがある。
となりで寝ていた彼女はめんどくさそうに布団からもぞもぞと顔を出すと
「楽しいから。」
と答えた。
不意にくちびるをふさがれてタバコの苦味が口内を駆けめぐる。
私の舌は言葉を発するよりも真っ先に快楽をえらんだ。
「そんなもんかな」という最低な返事よりも本能的に幾分マシだと思ったのだろう。
私は彼女の柔らかな身体に、だらしなく身をうずめていった。
「ねえ、あなたはどう思ってるの?」
彼女の声を目覚ましに私はようやく夢からさめた。
性行為のあとの心地よい疲労感からか、数時間もぐっすりと眠ってしまっていたようだ。
頭がとてももやもやする。
どうやら彼女は私よりもだいぶ先に目が覚めていたらしい。
私は日頃から、いちいち自分の言ったことなど憶えていない。
だから彼女の質問に答えるには最初に記憶を断片としてたぐり寄せ、すべてを初めからきちんと繋ぎなおす作業が必要だった。
「どう思ってるって、なにが?」
でもこの時はどういうワケか完全に思い出すのを諦めていた。
絡みつく海で溺れているみたいにひどく眠い。
「さっき私に『私たちって、何でこんなことしてるんだろうね?』って訊いたじゃない?だからあなたは?って。」
綺麗な顔が一瞬だけ陰りをみせる。
かと思うと、彼女は右の頬だけをすこし持ちあげて照れくさそうにはにかんだ。
———私は気付いていた。
いつからだろう。
始まりはずっとずっと前のことだ。
そのあたりの記憶は深くて重苦しい鉛色をしている。
この彼女の何気ない仕草は「何か」を心の牢獄の中に閉じ込めている時のサインなのだと。
同時に「それを解き放てる人間は自分の周りにはいやしないのだ」と主張している表情でもある。
いっそのこと、気付かなければよかった。
「別に。———理由なんてない。」
こんなに冷たい言葉を私はどうして彼女に吐きつけてしまったのだろう。
単純にイライラしていたのかもしれない。
でも———今なら少し分かるような気がする。
私たちの関係にはいくつもの階層があった。
私たちは複雑な公式によって支配されていた。
社会という監視。
常識という洗脳。
モラルという罪悪感。
それに彼女はけっして『本当のこと』を言わない。
そのくせ私を求めようとする。
だからすこし、いじわるしてみたくなったのだ。
そうだと信じたい。
「この関係に意味があるって本気で思うの?もし……もし私とあなたとの間になんらかの関係があったとしたら、私の側にはいないでしょう?」
私の反応は彼女にとって予想外のものだったらしい。
視線を泳がせ唇をギュッと結び、しばらくの間彼女は何も言わなかった。
それから小ぶりな胸がはだけたまま布団から這い出した。
側にあるカーキ色のソファーに腰掛けて脚を組み、お気に入りの細長いタバコに火をつける。
「……ふぅ。」
やかんの口から白い吐息がもれると、たちまち私の嫌いな匂いが部屋に充満した。
「気楽なんだ。」
彼女は独り言のようにつぶやいた。
「そりゃあ、何のしがらみもなくこうやってセックスしたり、どっか出かけたり、ご飯食べたり、ぼーっと一緒にテレビを見たりする関係は気楽だと思うよ。」
私はペットボトルに残っていた水を飲み干し、後ろ手でいそいそとホックを直した。
そして力なく布団に仰向けになり、薄よごれた天井を眺めている。
「……そういう意味じゃないよ。」
彼女は乱暴にタバコをもみ消した。
「じゃあどういう意味?」
「この世には完全な自由なんてないんだよ。……生きてるかぎり。この身体があるだけで私は好きなときに好きな場所に行ったり、好きな人に会ったりできない。それに……自分が本当に言いたいことさえ言えない。」
「……あなたって本当に自分勝手だね。」
私は苦笑した。
「そうだね……自分勝手だね。」
彼女はうなずいて、すでに吸い終わった煙草の吸い殻を指でつついていた。
それから顔を上げ今度は左右対称のつたない笑顔と一緒に
「力抜けちゃってるよね、この関係。」
と言った。
声のトーンがいつもと少し違っている。
……そんな気がした。
「そうだね」と答えると
「私も気楽だけどあなたも気楽だよ。」
彼女はもう一本に火を着けた。
私が「どういう意味か」と尋ねると彼女は「なんでもない」と答えただけだった。
それからすぐに彼女は亡くなった。
私とのやり取りがあったすぐ後、自らその命を断ったそうだ。
皮肉な事にしばらくの間私はそのことに全然気がつきもしなかった。
いつもと同じように起き、いつもと同じように寝て、それからまたいつもと同じような朝が来た。
一つだけ違ったのは、朝目が覚めたときに彼女がとなりにいないこと。
彼女から連絡がないことだってよくある気まぐれだと思っていた。
いつものインターバルよりちょっぴり長かったけれど、それはただ単に彼女が私を必要としなくなり「他に気楽な関係でも出来たんだろう」くらいにしか思っていなかった。
「……確かに私は『気楽』だったな。」
この言葉だけが今でも胸に染み付いて、吐き出しても吐き出しても、もくもくと部屋に立ちこめる。
私は独りぼっちのタバコを箱から引っ張り出して先端に火を着けた。
二回目は思ったよりも事がスムーズに運び、自分でも驚いてしまう。
今度は吸わずに彼女のお気に入りの灰皿にそっと優しく転がした。
じ、じ、じ、と夏の最後によく見かける、地べたに転がっている蝉のような音。
けむりがゆらゆらと少しずつ天に昇っていく———。