車の中でひとり。コーヒーを啜りながら。
その昔、父親は昼食を駐車場においた車の中で食べてるという話を、母から間接的に聞いた。直接聞いたところ、父曰く、車の中の方が静かに食べられるし、気を使わなくていいからいいんだ、とのことであった。
その話を聞いて、少し寂しい気持ちになったのを覚えている。当時小学生だった僕の世界では昼ごはんはみんなで楽しく食べるべきものであったし、昼食を食べるという行為よりは、コミュニケーションをとることこそに意義がある時間と考えていたからだ。
もちろん、それを直接伝えることはなく、あぁそうなんだ、程度の反応で済ませていたと思う。あのなんとも言えない、父の背中を小さく感じた何気ないあの日のあの瞬間が、どうしても頭から離れないでいる。暗い地下の駐車場に停めている、ワンボックスカーの運転席で昼ごはんを食べる父。
「仕事はご飯を食べるために続けているんだ、それ以上でもそれ以下でもない」というスタンスで働いていた父の、そのもの寂しい姿を思うたびに、子供ながら心が痛んだものだった。
それから数十年が経ち、僕は医師となり夫となり、家庭を持つ父となった。そして父はリタイアし、まるで水を得た魚のように、実に気のままに日々を過ごしている。
朝から夜遅くまで仕事を続けて、自宅に帰ると子供が寝るまでのひと時を家族に癒され、奥様との会話を楽しみ、そして就寝までのわずかな時間を読書に充てる。日々することは変われども、朝起きてから夜寝るまではおおむね変わりのないリズムである。そこに自分を振り返るような時間はまるでない。
「とにかく前へ進むんだ」と、後ろで誰かが叫ぶ。声にならない声で、僕だけに伝わる声で叫んでいる。
僕は言う。「そんなにひどいことってないと思う。もう走っているんだよ、現実的な意味でも概念的な意味でも。走ると休む、休むから、また走れる。そういうものだろ、それが生き物全般に言える道理ってものだと思うけれどね。」と。
顔のない誰かがまた叫ぶ。「それでも君は走り続けないといけない。道理であれなんであれ、現実的には、君は止まることを許されないんだ。その代わりに、君は走りながらであれば何をしても許される。もちろん、一定の規律の中においてだけど。」
「何をしても許される?」
その質問に返答はなされず、また一日が始まる。後ろには顔のない誰かの概念だけがそこに残り、それ以外の姿や形は失われていた。
僕はまた走り出す。走りながら、何ができるかを考える。
車は朝日を纏いながら、高速道路を走る。私は、車を運転しながら、顧問先の企業へ仕事に向かう。高速道路を下り、料金所を超え、一般道を走る。
木々の葉がポツポツと赤く染まっているのが目に留まる。赤信号で止まると、犬を連れた老婆が、確実にそこに地面があるのかということを確かめるように、横断歩道を一歩ずつ歩く。後を追う犬が、その確認作業を監視するかのように、一定の距離を保ちながら彼女に続く。信号が青になり、アクセルを踏む。ガソリンがエンジンに流れこみ、自動車が呻き声を上げながら動き出す。老婆と犬は、バックミラー越しでも、もう見えない。
ふと、マクドナルドの店舗が目に入る。そういえば最近食べてないなと、立ち寄る理由を見つけ、ドライブスルーに入る。
朝マックのメニューにホットコーヒーを頼み、お金を払い、それらを受け取る。仕事先に到着し、駐車場でエンジンを切り、それらを頬張る。
そして、コーヒーを飲む。一人、静寂に包まれながら、コーヒーを啜る。啜る音とコーヒーの香りだけが、僕を包む。車内に僕とコーヒーが溶け込む。この時間を、僕はとても大事な瞬間だなと感じる。慌ただしい毎日の中で、一人で車の中でコーヒーを飲みながら過ごすこの時間が、とても愛おしく感じる。
周囲の景色は殺風景だが、コーヒーを啜るたびに親密さを増す。この時間が、今の僕にはなくてはならないのだと、確信的に感じる。
時間は流れ、人も変わる。
そして、変わるからこそ見える何かが、そこにある。