「理想と現実の狭間で:映画『夜は短し歩けよ乙女』で突きつけられる人生」
森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』は、成功と失敗、孤独と愛、理想と現実といったテーマが交錯する物語だ。
物語の中では、李白と東堂というキャラクターが「成功」と「失敗」の二項対立を体現している。
一方、主人公である「先輩」と「乙女」の関係性は、これらのテーマをさらに深く掘り下げる理想と現代社会の現実的な要素を含んでいる。「先輩」の不器用な追求と「乙女」の無垢な存在は、私たちが人生や他者との関わりをどう捉え、生きるべきかを考えさせる。そして、そこには私たちが直面する「先人」との関係、そして「乙女」に救いを求める切実な思いも重なる。
李白と東堂:成功と失敗の二項対立
李白と東堂の対比は、成功と失敗という物語の二極を明確に浮かび上がらせる。
李白は高利の金貸しとして「物質的な成功」を収めた人物として描かれる。しかし、その生活は孤独に満ちている。
彼には家族と呼べる存在がなく、人生を虚しく思う。風邪を引いても心配してくれる人がいない。
一方で、東堂は、若い女性にセクハラをする典型的な悪中年で、貧困や失敗、家族との不和に苦しむ落伍者としての人生を歩む。映画の中で、彼は最終的に娘と和解し、物語の結末では幸福そうに描かれる。
この二人の対比は、成功や失敗が単純な善悪や優劣では測れないことを示している。
李白の物質的成功が彼を孤独へと追いやる一方で、東堂は失敗を繰り返しながらも愛と関係性の中で救いを見出す。
哲学者アルベール・カミュが説いたように、人間の行動には「不条理」が伴う。成功や幸福の追求は必ずしも望んだ結果を保証せず、時に孤独や苦しみをもたらすことがある。
富と世代の分断
李白と東堂の対比は、単なる個人の成功と失敗を超え、富や世代の分断という現代的なテーマを内包している。
李白の孤独は、物質的な成功を持つ世代が抱える「精神的な貧困」を象徴し、東堂の困窮は、経済的格差が生む「物質的な貧困」を体現している。成功者は孤独の中に閉じ込められ、失敗者は経済的な制約の中で愛を見つけるが、両者とも現代社会の分断を反映している。
また、この分断は世代間の摩擦にもつながる。映画内では、「詭弁論部」というサークルの年老いたOB・OGたちが、高齢者となったことへの不安と不満を吐露する場面がある。「詭弁論部」は、若い大学生たちによって受け継がれているが、それでも老人たちの不安は酒の力を借りなければ消えるものではなかった。
現実において、先人たちが築いた価値観や経験則は、若者に対して無意識のうちに壁を作る。先人たちは自らの狭義な経験則から「無理だ」と結論づけ、若者の挑戦を封じてしまうことがある。
主人公の「先輩」は李白や東堂によって振り回されることになる。これは、彼らが成功や失敗のモデルケースであるだけでなく、その影響力によって彼自身の道を狭める存在としても機能しているからだ。
「先輩」の存在:現実を生きる不完全な人間
「先輩」は、どこにでもいそうな若者の典型として描かれる。彼は目立たず、冴えない外見に眼鏡を掛け、成績も一定のまま。大学院に進学しているが、それは就職活動を先送りにするためであり、人生の明確なビジョンを持たない。一方で、彼は「乙女」という理想の存在に執着し、自分の不完全さを補うものとして彼女を求め続ける。
しかし、現実の「先輩」はどうだろう。私たちは、先人たちに拒絶され、挑戦する前から「無理だ」と決めつけられることに挫折感を覚える。「何をやっても無駄」という諦念が、若者の足をさらに重くする。その背景には、過去の成功者たちが自らの価値観を押し付け、若者の未来を狭めている現実がある。
物語の「先輩」も、まさにこの状態が続く。彼は「不可能」とされることにめげず、障害を全てなぎ倒して走っていく。実のところ、歩いているのは「乙女」だけで、「先輩」はずっと走り続けている。
走り続けるしか、私たちが先に進める方法がないからである。物語の中で、「先輩」はついに走るのを止めて、アパートへと帰ってしまう。これが「挫折」なのである。
「乙女」の存在:理想像としての他者
「乙女」は、この世の全ての男性にとって恥ずかしいほどの理想像として描かれる。彼女が歩けば全てが上手くいき、周囲の人々を愛情で包み込む存在だ。この無垢で完璧な姿は、現実には到達し得ない理想であり、「先輩」の中にある欠落を補うための投影でもある。
物語の中で、「乙女」は李白や東堂のような先人たちにも救いを与える。成功者であれ失敗者であれ、「乙女」の存在は彼らの人生における断絶を愛で包み込むのである。
しかし、現実の世界ではどうだろうか。私たちには「乙女」のような存在がいない。私たちは「先輩」や東堂、李白のように救いを求めながら、さ迷い歩いている。そして、ついにそれを見つけることができない孤独な存在として生き続けなければならない。
救いの不在
『夜は短し歩けよ乙女』における「先輩」と「乙女」の関係は、成功や失敗、理想と現実の狭間で揺れる人間の姿を映し出している。「先輩」は、先人たちに挫折を突きつけられながらも理想を追い求め、「乙女」という理想像に救いを見出そうとする。
しかし、現実に生きる私たちは、「乙女」のような存在を持たない孤独な中で、自分の道を模索しなければならない。
理想に完全に到達することは難しい。しかし、それを目指して歩む過程こそが人間の本質であり、価値あるものなのだ。先人たちの価値観や経験に囚われることなく、孤独の中で自らの「乙女」を探し続ける。それが、分断された現代社会における私たちの課題ではないだろうか。