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年賀状をやめるということ

年末が近づくと、私たちは年賀状を準備し始めます。それは長い間、日本の文化として根付いてきた伝統的な行事です。

親戚や友人、職場の上司や学校の恩師、お世話になった人々に新年の挨拶を送る行為には、人と人との繋がりを再確認し、感謝を伝えるという意味が込められています。

しかし、ここ数年、年賀状をやめる人が増加しました。この選択には、単なる手間やコストの問題以上に、現代におけるコミュニケーションの変化が影響しています。

かつて年賀状は、新年唯一の挨拶手段であり、それがなければ長らく連絡を取っていなかった人と繋がりを維持することが難しい状況でした。

しかし、今ではLINEやFacebook、InstagramといったSNSを通じて、日常的に相手の近況を知ることができます。時には年賀状よりも即時的で親密なメッセージを送ることが可能です。そうした状況の中で、年賀状が「形式的な義務」のように感じられる瞬間が増えてきました。

また、年賀状をやめることで得られる自由もあります。師走に時間を割いて住所録を更新し、ハガキを準備し、投函する一連の作業は意外と負担です。年賀状を送らない選択は、逆説的に自分自身の時間を大切にしようとする行為に他なりません。

もちろん、年賀状をやめることには後ろめたさもあると思います。特に目上の方や親戚に対しては、「失礼ではないか」という不安が頭をよぎります。しかし、この決断を通じて思うのは、伝統をやめることは必ずしもその文化を否定することではない、ということです。

むしろ、私たちが時代の変化に適応することができる存在であると認識し、自由な意思決定に基づく自己実現が可能であることを再認識することにつながります。その文化が現代の中でどのように形を変え、新しい意味を持つかを考えるきっかけにもなります。

年賀状をやめるという選択は、ただ一つの方法を手放し、自分に適した新しいコミュニケーションの形、感謝の形を模索することに他なりません。

年賀状をやめるという決断を下したとき、「伝統文化を衰退させてしまうのではないか」という不安にも駆られます。

しかし、形としての年賀状をやめても、その背後にある「行為としての文化」は続きます。むしろ、形式に縛られなくなった分、その行為の本質がより鮮明に浮かび上がってくるかもしれません。

文化とは、必ずしも目に見える形に限定されるものではありません。年賀状という紙のハガキは、確かに美しい伝統です。

しかし、その本質は「新年に相手を思い、その幸せを願う行為」にあります。

たとえハガキの代わりにメールやメッセージアプリが使われたとしても、その行為の意義が損なわれることはありません。

例えば、SNSで送る年始の挨拶には、年賀状にはない自由さがあります。メッセージを写真や動画で彩ることもできますし、タイミングも気軽に設定できます。

それは単に便利さを追求した結果ではなく、相手に自分らしい形で思いを届けるという新しい選択肢を生み出しています。

こうして行為としての文化は、新しい形へと進化しているのです。

また、年賀状の行為そのものが姿を変えても、「誰かを思い出すきっかけ」という文化的な役割は失われません。年賀状をやめたあなたは、年末年始にふと「誰にメッセージを送ろうか」と考えるようになるかもしれません。

それは形式的に住所録を見返す行為ではなく、心の中で他者との関係を振り返り、選び取る過程です。その瞬間、年賀状という形式的で物理的な行為は、それを超越した文化的な深みを感じさせるでしょう。

大切なのは、文化を「守るべきもの」として扱うのではなく、「活かすべきもの」として捉える視点ではないでしょうか。

行為としての文化が残り続ける限り、その形は時代とともに変わっても良いのです。それどころか、変わることで文化は新たな命を吹き込まれます。

年賀状を送らなくなったとしても、誰かを思い、その幸せを願う行為を行うならばそれは尊いことです。その行為が続く限り、伝統や文化は確実に守られ、私たちの中で生き続けているのです。そして、その文化は新しい形の中で次世代へと受け継がれていくことでしょう。

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七尾えるも
この度はチップをありがとうございました。