イルマタリヤの声 パイロット版
オオオォーン……
夢見クジラの鳴き声で、アレンは目を覚ました。簡易ベッドに腰かけて寝ぼけ眼をこすると、溢れだした涙が頬を伝っていった。
きっと操舵手が無理な進路変更をしたに違いない。クジラの鳴き声は文字通り悲鳴で、そこに込められた悲哀の感情がアレンの頭を貫いていった。
共感(エンパス)アレルギー持ちは、これだからキツイのだ。頭にカチューシャ型の抑制装置をつけていても、これだけ巨大な意思に包まれていれば効果も薄い。
交代の時間にはまだ早いが、アレンは整備士らしく格納庫に向かうことにした。
夢見クジラの体をくり抜き、半分を機械に置き換えた空中戦艦ハルヴィは最近多発している海賊による襲撃を防ぐべく、哨戒任務にあたっていた。
多発しているといっても、それはこういった哨戒任務が始まる前の話で、こうもにらみを利かせていると海賊としても表立って行動を起こさなくなっていた。
そういうわけで、ここでの任務は代り映えのしない毎日が続くだけのものだった。
『それだけ平和ってことなんだろうけどサ……』
アレンは心の中で独り言ちて、あくびをした。その時だった。
格納庫に続く通路の壁が吹き飛び、五メートルはあるであろう黒い巨人めいたものが半身をそこに乗り出したのだ。外壁が破壊された時の衝撃に耳を聾されつつも、アレンは急激な減圧によって外に放り出されないように手すりをぎゅっと掴んだ。
その巨人は有機的なラインで構成され、頭部は犬のような意匠をこらされていた。
巨人の頭部がこちらをとらえ、じっとこちらを見つめる。その形状、そしてその所作に、アレンは気品のようなものを感じ取っていた。まるで神が人間たちに遣わした使者のように思えた。
巨人はそれから何かを探るように頭を巡らした後、そのまま離脱していった。
不意に現実感の波が押し寄せ、鳴り響くサイレンの音がアレンの意識をはっとさせた。
〈本艦は所属不明のハンターマシンによる攻撃を受けている! 発進可能な全てのタイラーヘッドは直ちに出撃せよ!〉
アナウンスを聞いたアレンは急いで格納庫に向かおうとしたが、完全に腰が抜けて足に力が入らなかった。それでも何とか立ち上がろうと、手すりをよすがに立ち上がった。
壁にできた亀裂からは先ほどの黒い巨人――アナウンスされていた所属不明のハンターマシンだ――と、その周りを飛び回る三角形の可変戦闘機タイラーヘッドが見えた。
『海賊なのか……? それも単機で襲撃を?』
疑問符で頭を埋め尽くされてしまう前に格納庫に向かうべく、アレンは一歩を踏み出した。
しかし今度は床が抜けて、そのまま落下する羽目になってしまった。幸いアレンのいた通路はハルヴィの内部にあったので、そのまま海に落下するということはなかったが、生臭い粘液が溜まっている場所に背中から激突してしまった。
粘液が飛び散り、口にも入り込んでしまった液体をペッペッと吐き出す。魚市場の生臭さを数倍きつくしたような匂いに思わず腕で口と鼻を覆ったが、匂いはすでに服にもしみ込んでしまっていて、逆効果だった。
吐きそうになりながらもぐっとこらえ、落ちてきた所を見上げた。暗闇に光の穴が空いているのが見える。あそこから落ちてきたに違いないが、登るにはいささか高すぎた。それにここは夢見クジラの老廃物が溜まる所だろう。こんなところに長居するつもりはないが、戦闘中に助けを呼ぶこともできなかった。
終わるまで待つか、それとも有毒ガスで死ぬか。アレンの心が絶望に沈みかけた時、ふと光が差した方向に何かがあるのが見えた。それは先ほど襲撃してきたハンターマシンのように大きく、人間の形をしているように見えた。
「あれは……」
溜まった膿の沼を進み、それに近づく。するとそれはやはり人間の形をしたマシンに違いなかった。両手をだらりと下ろし、首はがっくりとうなだれている。
血と老廃物にまみれてはいるが、その純白のフレームは美しかった。そして何よりも目を引いたのが、その緑色の『髪』だった。頭部から伸びている緑色の髪は、アレンが落ちてきた穴からの光を受け、精一杯輝いているようだった。
「ハンターマシンの一つ? でもどうしてこんなところに」
胴体に着せられた分厚い装甲服は開いており、そこから中に乗り込むことができた。コックピットは完全な球形というより、上下に長い卵型だった。中央にはシートと二つのレバーがあるだけで、機械というよりは帆船のような単純な乗り物に思えた。
これまで幾度かハンターマシンを目にしたことはあったが、実際に乗ったことはなかった。だからどうせ死ぬ前くらいには気分だけでも味わおうと、アレンはシートに腰を下ろしてみた。
それから二つの操縦桿を握ると、コックピットと外界を繋ぐ裂け目が塞がれた。突然のことにどぎまぎしていると、今度は頭を殴られたかのような衝撃がアレンを襲った。
それは強い思念の塊だった。外に出たい。ここから出してほしいという懇願。頭が割れるような痛みに反応するかのように、心臓が一層激しく鼓動し始める。
「分かった! 分かったから! ならどうすればいいのか教えてくれ!」
半ばヤケクソ気味にそう答えると、途端に頭痛が引き、全天周のモニターが点灯した。それから頭上にある穴がハイライトされて、ここに向かうよう指示された気がした。
しかしハンターマシンに乗るなんて初めてで、その内部構造や操縦方法も秘匿されてきたとあっては、動かすことなんてできもしなかった。
「クソ……どうしろっていうんだよ」
すると再び締め付けるような痛みが頭を襲い、アレンは再び痛みに呻いた。そして痛む頭を押さえようとすると、ハンターマシンもそれに同期して腕が動いた。
「気で動かせって言うのか?」
それに答えるように痛みは引いたので、どうもそれが正解らしいというのが分かった。
「なるほど。なら、やってみるしかないな」
そう自分に言い聞かせ、操縦桿を握りしめる。目を瞑って、前に進むように強く念じた。名も無きハンターマシンはそれに反応し、両手を地面につけて、這いつくばるように進み始めた。
不格好な滑り出しだが、何とか動き出したことに安堵した。しかし気が緩んだせいか、ハンターマシンの腕から力が抜け、膿の中に突っ伏してしまった。それに怒ったように頭痛がアレンを襲い、悪かったと謝った。
このマシンはどうも思い通りにいかないと、駄々をこねる所があるらしく、図体の割には子供らしいなと思わず苦笑した。それからアレンはマシンを二本の足で直立させ、頭上の穴に向かって両手を伸ばした。
その手で穴のへりを掴み、無理やり穴を広げながらよじ登る。メキメキと音を立てながら通路に身を乗り出させたアレンは、そこで兵の一人と目が合った。
しばらく唖然とした様子だった兵士は、気を取り直したように抱えていたライフルの銃口をこちらに向けようとしたが、向き直ったハンターマシンの肘が直撃して通路を転がっていった。
「あっ、ごめん!」
謝りはしたが、むしろ好都合だったかもしれない。通報でもされてしまえば更なる混乱は必至だったからだ。とにかく今はこのハンターマシンに従う他はなかった。でなければ頭を潰されかねないからだ。
本来人が使うはずの機械に、逆に使われてしまうというのはおかしな話だが、命に関わるならば話は別だ。それも、自分の命かかっているなら尚更だ。
何とか穴から全身を引っ張りだすことに成功したアレンは、身を屈ませつつ再び床を抜けさせないようにゆっくりと裂け目へと移動した。
眼下では未だ戦闘が続いており、黒いハンターマシンは自由自在に宙を舞ってタイラーヘッドたちを翻弄していた。この機体もアレと同じなら、自由に空を飛ぶことができるはずだ。空を飛ぶ感覚がどういったものなのかは知らないが、
「とにかく、やるしかないんだな」
裂け目に両手を入れて全身が通れるくらいに広げると、空中に身を躍らせた。自分でもこんなにあっさりとやってのけてしまったことに驚き、誇らしくもなった。しかし数秒も経たないうちに全身を恐怖が襲った。
そう、どういうわけか飛べないのだ。ずっとハルヴィの中にいたんでエネルギーが切れてしまっていたのかもしれない。それか、アレンの操作がマズいのだろうか。
海面が眼前に迫り、いよいよ死を覚悟したアレンとは裏腹に、このマシンは喜びの感情を爆発させていた。その感情にあてられて思わず口から笑いが漏れるが、ひきつった笑いにしかならなかった。
そして海面と衝突し、世界が爆発した。
相当な衝撃がマシンを襲ったにも関わらず、どういうわけかバラバラにはならず、アレンもまだ生きていた。それに、どこからか笑い声が聞こえてきていた。
安心感さえ覚える、無邪気な笑い声。こんな気持ちになったのはいつぶりだろう……
〈……ありがとう〉
「えっ?」
突如告げられた感謝の言葉は、確かにアレンの耳に届いていた。テレパシーのような頭の中をくすぐられるような感覚ではなく、確かに聴覚でその声を認識していた。
〈私をあそこから出してくれたおかげで、またこうやって水を浴びることができた〉
その声は明らかに少女のものだったが、このマシンは女性なのだろうか。
「そりゃ、君がそうさせたんだろ」
そう口を尖らせると、マシンはフフッと笑った。
〈そうでもしないと、きっとここまでやってくれないでしょ?〉
水の中を漂いながら、アレンは太陽を仰ごうと上を向いた。海の青いベールに包まれてゆらゆらと揺れる太陽光は、海の中でさえその暖かな光を押し広げさせていた。
〈私はイルマタリヤ。キミは誰?〉
「ぼくは……ぼくはアレン・ウォーカー」
◇◆◇
アレンが自分の名前を言い終えると同時に、イルマタリヤの全身に力がみなぎっていくのを感じた。そして今なら飛べるという確信に近いものが、頭の中で弾けた。
両手を空に向かって伸ばし、広げる。その動作を終えるや否や、イルマタリヤはぐんぐんと海面へと近づき、やがて空へと飛び出していった。清々しい感覚が頭を冴えさせ、あらゆるものがはっきりと感じられるようになった。
風を切る感覚に、ゴウゴウと耳元で唸る空気、そして二人の頭上からは二機のタイラーヘッドが近づいてきていた。大昔のステルス戦闘機に似た、三角形のボディを持ったそれは、ぐるぐると螺旋を描くようにして降下していた。
〈またあそこに戻るのはごめんだから……!〉
イルマタリヤがそう呟くと同時に、底なしの不安と孤独感がアレンを襲った。長い、長い間一人で、動くこともかなわなかった無力感に鼻の奥がツン、となり、目からは涙が零れた。
そんなアレンをさしおいて、二機のタイラーヘッドは人型に変形した。速度を重視した戦闘機形態から、接近戦と小回りに特化した人型への変形。しかし、武器を作動させるような動きはなく、あくまでこちらを捕獲しようという心持ちらしい。
アレンは反射的に機体を上昇させ、両腕を頭上に掲げて×の字を作った。そして伸ばした指先を勢いよく下ろすと、そこから伸びたエネルギーの糸がタイラーヘッドの一機を細切れにしていた。
同時にそこから放たれた死の感覚が、抑制装置の閾値を超えてアレンの脳を揺さぶった。背筋を走る冷たい感覚、恐怖と後悔がないまぜになった感情に、思わずアレンは吐き気を抑えることができなかった。
〈うわっ! 汚い!〉
イルマタリヤの悲鳴にも構わず胃の中にあったものを一通り吐き出してしまうと、胆汁の苦みに顔をしかめた。そして背後から襲った衝撃で全身をシートに押し付けられるのと、組み付かれた、と思ったのはほぼ同時だった。
タイラーヘッドはイルマタリヤより二回りほど大きく、覆いかぶさるように抱き着かれてしまえば、まともに動くことすらままならなかった。それよりも嫌だったのが、抱き着いてきたタイラーヘッドのパイロットが放つ殺気だった。
僚機を殺されたあのパイロットは、復讐に囚われてしまっている。命令に従って武器を使わないだけの理性は残っているらしいが、こういう執念に囚われた相手が一番厄介だというのは、訓練生時代に散々味わっていた。
〈アレン! 何とかしてよ! このままじゃまた閉じ込められる!〉
「分かってるよ!」
叫び返しつつ、アレンはタイラーヘッドの右腕を両手で掴んだ。あとはイルマタリヤのパワーにかかっている。そして意を決してその腕を引っこ抜いた。
金属同士が擦れる甲高い音を響かせながら腕を引きちぎり、拘束から逃れたイルマタリヤは、そのままちぎった腕を振り回してタイラーヘッドに投げつけた。
腕といっても金属の塊である以上それなりの質量があるし、そんなものが高速でぶつかってくれば、コックピットのショックアブソーバーでさえ減衰しきれない衝撃がパイロットを襲う。
パイロットが気絶し、制御を失ったタイラーヘッドは動きを止め、海面へと落下していった。
その時、上空で大きな爆発音が轟くと同時に巨大な火球が周囲を煌々と照らしていた。それがハルヴィの爆発だと気づくのには、少し時間がかかった。
爆炎に照らされながら、あの黒いハンターマシンが降下してきて、イルマタリヤの正面に浮かんだ。
〈あなたを迎えに来たわ。イルマタリヤ〉
犬を模した頭部に光る赤い瞳は、慈悲深さと刃のような鋭さをたたえていた。
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