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31cmの勇気を繰り返して、しがらみを断ち切りたい。

髪をばっさり切ろうと思っている。
でも、まだ切らない。

あと数ヶ月、春先か遅くとも夏本番を迎えるまでには31cm以上ばっさり切りたい。

前髪(セルフカット)以外は2年くらい髪を切っていないから、30cmものさしを顎下に当ててみるとちょうどものさしと同じくらいの長さになっている。

長いヘアスタイルにこだわりも未練もないから、いつさよならしたっていい。でも、まだ切らない。


ヘアドネーション
って、聞いたことあるでしょうか。

簡単に言うと、髪の毛の寄付。

病気や先天性の理由、不慮の事故などにより頭髪を失った子どものために、寄付された髪の毛でウィッグを作り無償で提供する活動のことです。

ウィッグを作るためには最低でも31cm以上の髪の毛が必要で、今の長さだとギリギリ足りないのであともう少し伸ばしたい。

私は上手にヘアアレンジが出来るわけでもなく、いつも後ろで1つに縛るだけ。染めることもパーマを当てることもなく、長い髪を持て余している。
せっかくここまで伸びた髪の毛、切っても捨ててしまうだけなら誰かの役に立ててほしい。

私がヘアドネーションのことを知ったのは今から何年前だったか… ちょっと思い出せないけれど、きっかけはネットのニュース。
5歳くらいの男の子がヘアドネーションするために髪を伸ばしつづけ、ついに寄付したという内容だったはず。
「男なのに」「女みたい」
周りにどんなふうに言われても、信念をもって髪を伸ばしつづけた男の子に賞賛の声が集まっていた。

実は私も6年ほど前に一度ヘアドネーションをしています。
あの時も、2年くらい伸ばしっぱなしの髪をばっさりと40cmほど切ったな。

いつもなら、肩の下くらいの長さになったらボブにして、また肩の下くらいになったらボブにして… を繰り返しているのだけど、その時はいろいろとタイミングを逃してすっかり長くなってしまったのだ。

でも、当時息子と通っていた療育園でプールが始まることになり、親も一緒に入るので長い髪だといろいろ大変だ… ということでばっさり切ることにした。

その際、どうせ切るなら…と、ニュースを読んでから頭の片隅にあったヘアドネーションに挑戦してみることにしたのだった。


当時のビフォーアフター

本当にただただ伸ばしっぱなしだったので、ビフォーは毛先がバラバラです。

切った髪の毛は封筒に入れて郵送。
しばらくすると、「無事に受け取りましたよ」というハガキが届きました。

※今はデザインが変わっていると思います


ヘアドネーションのためのヘアカットは、JHD&Cの活動に協力している「賛同サロン」で切ってもらう他、行きつけの美容室で切ってもらってもOK。(その場合は事前に「ヘアドネーションをしたい」ことを伝えてから予約するのが◎)

ヘアドネーションする髪の毛には31cm以上という条件があるものの、年齢や性別は問わない。
多少クセがついていたり、カラーやパーマをした髪、グレイヘア(白髪)でも寄付できるとのこと。

31cm以上50cm未満なら、医療用のフルウィッグに。
50cm以上ならロングヘアのウィッグとして理想的な長さに。
31cm未満の場合はウィッグにするには長さが足りないため、シャンプーなどの研究開発(評価毛)に使われたり、美容師さんのカット練習用マネキンとして転売。その費用もまた、ヴィッグの制作費の一部として大切に使われるのだそう。

また、髪の毛の寄付の他に募金という支援の方法もあります。


今年4歳になる娘は生まれてから今まで一度も髪を切ったことがありません。前髪(母カット)以外。

娘の髪はほんのり茶色くて、細くてやわっこい。サラッサラのストレートヘア。よく保育士さんにも羨ましがられるし、私もついつい娘の髪を愛でてしまう。
ラプンツェルやエルサが好きな娘は、長い髪を三つ編みにするととても喜ぶ。

それでも、いつかは娘の髪も切るときがくるだろう。
娘がいいと言うなら、娘の髪の毛もヘアドネーションできたらなぁと思っている。
せっかくとても綺麗な髪だから。捨ててしまうなら、誰かの頭と心を守るアイテムに変身してほしい。
本当にきれいな髪の毛だから、素敵なウィッグになって喜んでもらえるんじゃないかと思う。


私が初めて一人で美容室へ行ったのは中学生のときだったはず。
近所の美容室へ自分で電話して予約をとって行った。少し、大人になったような気がした。

でも、高校生の頃はなんとお風呂場で自分で切っていた。今思うとなかなか恐ろしいことしてたな…

高校卒業後はまたお店で切ってもらうようになったものの、行くのはいつも1000円カットや高くても2000円以下の美容室だった。
それ以上の場所は、なんだかお洒落で自分には不釣り合いなんじゃないかと気後れした。

一応事前に「こういう髪型がいいな」というイメージは抱いて行くものの、いざ美容師さんを前にすると理想の半分も伝えられない。

私の髪質でこの髪型は無理なんじゃないか…
私なんかがこんなオシャレな髪型、似合わないんじゃないか…
そんな考えが頭をもたげてしまう。

そもそも、「美容室」という言葉自体がオシャレだ。
私はつい「散髪屋さん」とか「散髪してくる」「髪切ってくる」って言いたくなってしまう。
「美容室」「美容院」って言うときは少しむず痒い気持ちになる。

私の勝手なイメージではヘアカット2500円以上からが「美容室」で、自分が行っていいのはそれよりも料金の安い場所だと思っていた。
お金が無かったわけではないのだけど。

専門学校を卒業して、少しおしゃれにも興味と勇気が持てるようになったかと思えば今度はお金に余裕が無かった。
相変わらず、私が行くのは2000円以下の「散髪屋さん」ばかりだった。
(2000円以下の美容室がダメというわけでは決してないです。私の知る限り皆さんとても丁寧にカットしてくださる)

本当はショートボブくらいの長さをキープしたいなぁと思うけれど、キープできるほど頻繁に美容室へは通えない。
周りの「大人の女性」たちは、少しすいてボリュームを減らしたり、トリートメントして髪をつやつやにしてもらったり、カラーリングしたりなどでもっと頻繁に美容室へ通うらしかった。
中には前髪をカットするためだけに美容室へ行くという人もいると知って、カルチャーショックを受けた。

息子と療育園へ通っていた頃、他のお母さんたちが連れ立ってランチへ行くのを横目に、私は持参したお弁当をよく1人で休憩室で食べた。特に居心地はわるくない。むしろ、落ち着く。

働こうにも不自由で、家へ帰ろうにも中途半端な空き時間がたまにある。
行く宛がないときはよく、図書館へ向かって時間を潰した。

そこでさいき まこさん著『陽のあたる家』という一冊の漫画が目に留まる。
生活保護をテーマにした漫画だった。そういった内容の本を手に取るくらい、あの時の私は追い詰められていたのだろう。
その本の中に、私が求めている言葉があるような気がして手に取った。

物語は、ささやかながらも幸せな生活を送っていた一家が夫の病をきっかけに生活が立ち行かなくなる様子を描いている。

生活保護は他人事なのか
お金がないのは自己責任なのか
お金がなくなって、働けなくなって、それでも生きたいと願うのは恥ずべきことなのか。

読みながらポロポロと涙が溢れてどうしようもなかった。
とてもリアルな描写に胸が締め付けられつつも、声なき声を拾ってもらえたようで救われた。最後には希望も感じられたし。
自信をもって他人にもおすすめしたいと思える作品だった。


でも、ただひとつ気になってしまったことがある。
それは、その漫画の中で主人公家族の髪の長さがずっと変わらないこと。

物語では少なくとも数ヶ月が経過している。
数ヶ月もあれば、髪が伸びててもおかしくない。
服も食べものも満足に買えない生活なら、きっと美容室へも行けないのがリアルだろう。
でも、お母さんはずっとベリーショートに近いショートヘア。娘さんはきれいに切りそろえたボブ。
お父さんと息子さんもずっと短髪のままだった。

それが妬ましいとか、許せないとかそういう感情を抱くわけではなく、ただただ冷静に「髪の長さは変わらないんだなぁ」と思っただけ。
でも、そんな些細なことが気になってしまった自分に嫌気がさした。

他人への批判の種というのはおそらくこういう些細な「ひっかかり」なんじゃないかな。
批判の多くの根源は「嫉妬心」だと私は思っている。
自分はこんなに我慢しているのに、あの人はなんで…というような。

漫画の中でも、主人公一家が周りからバッシングを受けるシーンが度々あって胸が痛い。
でもその攻撃性の種は自分の中にもきっと存在して、何かの拍子に芽を出すかもしれない。それが怖い。

痛みを知っているからこそ手を差し伸べるのと、痛みを知っているからこそ突き落とすのとは、紙一重に思えた。
誰もがそれぞれの痛みや頑張りを認め合えたらいいけど、そう上手くはいってくれない。


今は、あの頃に比べればわが家の生活も少しずつ良くなっていってると思う。
去年は特に、特別給付金に私たち家族は助けられた。
仕事にも安定して行けているし、先月には借金のうちのひとつを完済した。
まだ先は分からないけれど、少しずつ少しずつ、良くなっていってるはず。

それでも、相変わらず私は美容室へ行くことを躊躇してしまう。
他人が美容室へ行く分にはそんなふうには思わない。なのに、自分のこととなると「贅沢だから」と思ってしまう。

髪を切ることだけじゃない。
事あるごとに私は、人の目を気にしている。
何か買ったり、どこかへ出掛けたりする度に

「◯年ぶりで」
「これは見切り品で」
「これは人からいただいたもので」
「これは中古で◯◯円で買ったもので」

…と、まるで免罪符のようにわざわざ言わなくてもいいはずのことを、言わずにいられない。

そうでなきゃ、「お金ないって言ってたのに、贅沢してるじゃんか」と咎められそうで怖い。
傷付くのが怖いから、先回りして予防線を張る。
そうやっていちいち、必要以上に無駄遣いしていないアピールをしてしまう。

その甲斐あってか、あまり直接攻撃的な言葉を浴びせられたことは少ない。
それでも、他の誰かが非難されるのを見聞きする度に自分事のように胸が抉られた。
ただ生きているだけであらゆることに罪悪感が付き纏った。

理解できない人にはきっと理解できない。
私の過剰な自己防衛も贅沢してないアピールも、むしろ相手を苛つかせてしまっているかもしれない。

でも、こればかりどうすることもできなかった。少なくとも今の自分には。
長い年月をかけて蓄積したこの罪悪感や反射的な防衛本能はかなり根深く、もはや強迫観念じみている。
気づいたときにはかなり深いところまで根を張っていて、ちょっとやそっとでどうにかできるレベルを超えてしまっていた。


よく、髪を切ると気分が変わるという。
「新しい自分に生まれ変われる」と。

私も、美容室へ行った後はなんだか身も心もかるくなったような、うきうきしてくすぐったいような気持ちになる。
でも、数日もすればそんな気持ちも隅に追いやられて私はまた人の目を気にしている。
根深い強迫観念は、ただ髪を切ったくらいでは断ち切れなかった。

一度ばっさり髪を切ったとき、ショートボブくらいの長さの自分をわりと「好き」だと思った。
できればこの長さをキープしたい。でも出来なかった。
「まぁ、髪を切らなくてもしなないし…」
お財布や預金通帳とにらめっこして、そっと気持ちを閉じる。


いつか、「美容室」へ行ってみたい。
カットする前にじっくりカウンセリングとかしたいな。
私の髪質だとか、髪の癖だとか、それに合うスタイルだとか、私の希望だとか、美容師さんとじっくり話し合ってみたい。

「贅沢」って本来は、心が満たされて最高な気分になれること。後ろめたさなんて感じなくていい。

美容室へ行くことも、きっと贅沢なんかじゃなくて。人が人として豊かに生きていくために必要なこと。
そして、そんな仕事に誇りを持って働く美容師さんたちを私は尊敬する。

美容師さんの技術や心のこもった接客にその対価を払うというのは、きっととても幸せなことのはずなのだ。

医療用ウィッグは制作に10万円ほどかかるらしい。ということは、売値は数十万…?
幼い子どもなら、成長に合わせて買い替える必要もあるかもしれない。

病気やケガの治療にも出費はかさむし、そこへさらにウィッグとなると家計に大きな負担となるだろう。
でも親ならきっと、わが子が髪に悩みを抱えているなら何としてでもウィッグを用意してあげたいと思うんじゃないかな。

だからこそ、任意で募った髪の毛でウィッグを作り無償でプレゼントするというヘアドネーションの方針に私は賛同した。

JHD&C(ジャーダック)にウィッグを申し込む子どもたちは、脱毛症や無毛症、乏毛症などの疾病や外傷、または小児ガンなどの治療に伴う薬の副作用によって頭髪に悩みを抱えています。
「病気になる」「髪を失う」ことは、誰のせいでもありません。しかしそのことが遠因となって、学校生活や日々の暮らしをスムーズに送れないことがあります。ウィッグで全てが解決するわけではありませんが、ウィッグを身につけることで生まれる前向きな気持ちが治療やQOL(Quality of Life・生活の質)に良い影響を与え、少しでも子どもたちと家族のサポートになれたら。
髪に悩みを持つというだけで、子どもたちの持つ無限の可能性が閉ざされてしまわないように……そんな思いで活動を続けています。

JHD&Cホームページより引用


私のような者でも、誰かの役に立てるのならこんなに嬉しいことはない。

嬉しい…というより、「救われる」のかもしれない。
自分が世のため人のため、尊い行いをしているとは思えない。
私の「誰かのため」は結局いつも「自分のため」だから。

何も役に立てなくて、いつも貰ってばかりで、助けてもらってばかりで、何も返せなかった分。
街での募金を見て見ぬふりして素通りしてきた後ろめたさの分。
その場で直接返せなかった、渡せなかった、差し伸べられなかったあれやこれや。

そんな自分が少しだけ、ヘアドネーションすることで救われる気がする。

そうやって少しずつ自分を許せたら、いつかは強迫観念じみたしがらみも断ち切って私は本当の意味で生まれ変われるのかもしれない。

そのためにはきっと、31cmじゃ足りない。
31cmの勇気を何度も何度も繰り返してやっと、いつか辿り着けるかもしれないというレベル。



最近、欲しいなと思ったものを買ったんです。

こんな、「えへへ〜(買っちゃった)」みたいなテンションでもっと生きていけたらな。
このツイートはちょっとした進歩。まぁ、まだ一進一退を繰り返すとは思うのですが…。


髪型は、「こんなふうに生きたい」という願いの表れの一つなのかもしれない。

次に髪を切る頃には外も暖かくなって、いろんな意味でお出かけしやすくなっているといいな。

そして31cmの勇気が、私の勇気が誰かの勇気にも繋がりますように。




こちらの企画に参加しています。

岸田奈美さんのお手本作品を読んでから、私も書きたいなと思っていました。
エピソードの募集はは1/20までとのこと。


このnoteを書く際「しがらみ」という言葉について改めて調べたのですが、もともとはネガティブな意味の言葉ではないのだとか。
悪化するものを止めたり、人生の激流から大切なものを守る、というような意味もあるらしいです。
しがらみは、何かから必死に大事なものを守ってきた証。そう思うと、ちょっと救われますね。

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