筆を止めるな。 #私の野心
素敵なタグに出会いました。
はまみさん(はじめまして)の、#私の野心
はまみさんのnoteによると、「夢」と「野心」は、似ているようで少しニュアンスが違うよう。
夢が「将来実現させたいと思っている事柄」なのに対し、野心は「ひそかに抱く、大きな望み。また、身分不相応のよくない望み。野望」のことを指すらしい。
ひそかに胸の内でふつふつと抱く、分不相応の大きな望み。私の野心…。
あります。めちゃくちゃ心当たりがあります。
何度かnoteでもほのめかしたことはありますが、せっかく素敵なタグに出会えたので、勇気を出してもう少し具体的に書いてみようかな…。
私の野心、それはすばり…
小説を書いてコンテストに応募し、入賞すること(そしてその賞金でわが家の借金を完済すること!)
…
…
わー… 言っちゃった。
怖い、恥ずかしい、「寝言は寝て言え」って?ごめんなさい…
書いた文字を消したくなる。
このまま公開せずに自分の心の中に閉じ込めておきたくなる…。
それでも今回はじめて自分の野心を言葉にしてみようと思ったのは、はまみさんのnoteに背中を押されたから。
本当は野心って、ふつふつと胸の内にしまって沸騰させておくべきで、あえて人に話すようなものではないのかもしれません。分不相応な企みなのだから、話すことで自惚れていると思われたり、身の丈に合っていないと言われてしまったりすることもあるでしょう。それでも私が野心を口にしていきたいと思うのは、言霊の力を信じているからです。
(はまみさんのnoteより)
言霊の力。
思っていることを口にしたり、書いて目に見えるようにしたりすることで、その言葉が「本当」になる…。そんな感じでしょうか。
夢や、やりたいことは言葉にした方が叶いやすい。
って誰かが言ってた。
私にも、経験がある。
例えば「かぼちゃが好き!」と言い続けていたら、かぼちゃのお菓子をいただいたりとか。そんな些細なことだけど。
もう少し大きな規模だと、叶えたい夢ややってみたい仕事を言葉にして発信しつづけていたらその道の人の目に留まったり、協力者やファンが集まってその夢を掴むことができた…とか(これは私の話ではない)
いいですよね、とてもドラマチック。
「好き」という気持ちや「あれしてみたい」といった願いは、内に秘めていれば当然他人には分かりません。エスパーじゃない限り。
でも外に出すことで、その言葉に引き寄せられる人が現れる可能性が生まれる。
その願いを応援したい!協力したい!叶えるところを見届けたい!という人が。
私も他人の言葉に引き寄せられること、あります。
誰かが「好き」と言ったものを覚えていてプレゼントの参考にしたり、誰かの夢や願いを叶える力になれる機会をそっと伺ってみたり…。
言葉にするってとても勇気がいるけれど、言葉にしなければ巡り合えない縁もある。
何者でもない私にだって、今までいくつもの小さな奇跡が起きた。
だから私は言葉にしてみる。
…えっとね、こういうのは、冷静になってしまうとダメなんです。
「鉄は熱いうちに打て」って言うじゃないですか。
私は優柔不断なので、よくあわあわ…と迷ってせっかくの熱を冷めさせてしまう。
この文章を書いている間にも、やっぱりこんなこと公開するのはやめておこうよって何度ももう1人の私が冷水を浴びせてくる。
noteの街にも、街の外にも、素晴らしい文章を書く人はたくさんいる。自分の書く文章が、とてもちっぽけに思えてしまうほどに。
私なんかが小説で賞を狙おうなんて、身の程知らずにも程があるのでは。
「野心」はとても臆病だから、放っておくとすぐにどこかへ逃げ隠れようとする。
そんな中はまみさんは、「怖い」と思いながらもnoteを書いて自身の「野心」を公開した。
その勇気が伝わったから、私も勇気を出すことにした。
言うだけなら、誰にも迷惑かけないし…!多分。
今、じっと見据えている文学賞があるんです。
締め切りまで、半年を切ってしまいました。
(この文章をなかなか書けずにいるうちにも刻一刻と時は過ぎ、締め切りまであと4ヶ月余り)
私がその文学賞を知ったときはまだ1年ほどの余裕があったにもかかわらず、未だにほとんど形になっていません。
おそらく、ほぼほぼ、間に合わないでしょう。
その文学賞を狙っている理由は2つ。
1つは賞金の額。借金を完済できるから。
もう1つは、募集しているテーマが私の「好き」なことだから。「これだ。書きたい」と思ったから。
最初は、よしやるぞ!とやる気に漲っていました。
実は過去にも何度か文学賞に挑戦しようと思ったことはあったものの、挫折してばかりで。
でも、「あの時は無理だったけど、今の私ならできるかもしれない」という気持ちになれたんです。半年前の私は。
日々構想を練って、楽しくて、今度こそやれる…!と気持ちが高揚していました。
が、ある日ふっと現実に返ったかのように「あれ… やっぱり無理だ」と思ってしまって思考が停止。
その後も小さな「できる」と「できない」の波が繰り返し訪れて今に至ります。
無理だと思う瞬間、それは自分の引き出しの少なさを実感するとき。表現したいものに自分の実力が見合わないとき。
知識や経験、語彙の少なさ。今の私では、書きたい物語に対して「説得力」が足りなさすぎる…。
足りないだけなら、補えばいい。でも、それが出来るならきっと悩んでいない。
本を読んだりネットで調べるのもいいけれど、実際に現場に行って自分の目で見たり、インタビューできたらどんなにいいだろうと思う。
でも、相手の迷惑にならないだろうか。
「小説を書く」という私の野心のために、他人を頼って知識や経験を得る代わりに自分は何を差し出せる?
多分、私が抱えるこの野心は私一人では叶えられない。
誰かに協力を依頼して、時に迷惑もかけて、たくさんの人に支えてもらわないと実現できない。
なのに私は誰かを頼るのが苦手、迷惑をかけることを極端に恐れるところがある。
そんな自分に対峙した瞬間、目の前に分厚い壁がそびえ立って途方に暮れる。
昔、バンドで挫折したときのことを思い出す。
人前では鼻歌すら歌えないのに、人前で歌おうとしたこと。集団行動が苦手なのに、誰かと信頼を結びたくて、バンドという形での表現に憧れたこと。
人前で歌えるようにはなったけれど、バンドは結局続かなかったな。
相手を信じて、自分を出すことができなかったからかな。
どうしていつも、自分の「得意」とは反対側のことに憧れてしまうんだろう。
殻を破らなきゃ、そっちへは行けないのに。
恐怖で、足がすくむ。
筆を持つ手が、止まる。
その文学賞は、おそらく締め切りと同時にまた次年度の応募が始まるでしょう。チャンスは一度じゃない。
今、焦って締め切りに間に合わせるよりも、もう1年じっくりと物語に向き合ってより良いものを作ることができるんだ、と考えることもできる。
でも、直近の締め切りを逃したらまた1年間葛藤することになる。
その間にも、苦しい経済状況はおそらく続く。
わが家にはもうじき10歳になる息子と3歳の娘がいるけれど、子どもたちにとっての1年間というのはとても大きい。
「今」したいこと、「今」行きたい場所、叶えてあげたい願いがたくさんある。
少しでも早く、少しでも早く… と気持ちが焦ってしまう。
でも、焦って仕上げてしまいたくない。
じっくり、納得いくまで物語と、登場人物たちと向き合いたい。
でも、納得なんて出来るのだろうか。どこかで妥協しなければ、永遠に完成などしないのでは…
そんな考えも頭をもたげる。
私は多分、「小説家になりたい」わけじゃない。
何かしらの形で文章は書き続けるとして、小説家として生きていきたいわけではないのだろうと思う。
小説を書いて、賞をとって、その賞金で借金を完済したい。そして、苦しい生活から脱したい。
つまり、「借金の返済」が目標であって「小説を書く」のはその手段ということ?
いや、小説を書きあげることも目標のひとつなんだと思う。
借金を完済するだけなら、手段は小説じゃなくてもいいわけです。
むしろ何故そこで小説を書くという発想に至るのか自分でも不思議でならない。
遠回りで、確実性に欠けている方法だと思う。
幼い頃から現在に至るまで、文章を書いて何かしらに選ばれたり賞をいただいたことは何度かあるけれど、それだけで通用するような世界とは思えない。
素晴らしい物語を紡ぐ人ならいくらでもいるのだから。
でも、自分がどれだけ通用するのかどうかは、やってみないと分からない。
少なくとも、ここで悩んで立ち止まっているだけじゃ何も変わらない。
なら、やってみたらいいんじゃないか。
自分がいいと思うものを他人もいいと思うかどうかは分からないけれど、まずは自分は「好き」だと思えるものをひとつ完成させたい。
人生のうちで一度でもいいから、「小説を書き上げる」ということを成し遂げてみたい。
これがきっと、私の野心の正体。
ついでに言うと、「借金の返済」という目標のその先にもまた、目標があって。
借金がなくなって、毎月貯蓄もできるようになって生活に余裕が出てきたら… したいことがたくさんある。
と言うよりこっちがおそらく本命なんじゃないか。
まずは家族でおいしいもの食べに行きたいよね。
帰省や、旅行もいいな。
子どもたちが何かしたいこと(習い事とか夢とかその他もろもろ)があるなら援助したいし、行きたいところがあるなら連れて行きたい。
心が豊かになるような経験をたくさん、あげたい。
「お金がない」を理由に諦めなくていいことまで諦めたくないし、諦めさせたくない。
自分のことなら、衣服やおしゃれにも気を遣ってみたいな。
ずっと後回しにしてきたから、何を着たいのかすら正直分からないけど…
だからまずは、あきやあさみさんの自問自答ファッション講座を受けたい。
あと、結婚式を挙げていないから、せめてフォトウェディングを撮って両親に見せたいなとずっと思っている。
好きなアーティストの新譜だって迷わず買いたい。
ライブももっと行きたい。もしかしたら遠征とかも、できちゃうかもしれないね。
遠くの地にいる、まだ顔も知らない人(SNSで繋がったリスナーさん)たちに会いに行くんだ。
いつもお世話になっている大切な人たちに何か贈り物もしたいし…
…あれ?あれれれ
なんだか書いてて泣きそう。なんでかな。
私、こんなにしたいことあったんだなって思ったら急に脆くなってきた。
でも、この脆さこそが私の強みだ。
この渇望をエネルギーに変えて私は小説を書きたい。
素晴らしい物語を書く人は世界中にたくさんいるけれど、私にしか書けないことも、あるはずだから。
だから、筆をとれ。
筆を止めるな。がんばれ自分。
野心を打ち明けるのは、とても怖いです。
「宣言」にちょっと似てる。
宣言したら、成し遂げねばというプレッシャーがかかる。有言実行せねばという。応援してくれる人がいるなら尚更。
そうやって自分を追い込むやり方もあるでしょう。
実際、過去にnoteの公式企画に応募するぞー!って「宣言」をして自分を奮い立たせたことがある。
あの時はちゃんと締め切りに間に合って、しかも賞までいただいた。
自分との約束を果たすことができた。うれしかったなぁ。
小説は、もっともっと長距離で過酷な作業になるだろう。
子育てしながら、仕事をしながら、家事をしながら。
自信がない。できる気がしない。
自信がないからつい、逃げ道を用意しておきたくなってしまう。
誰にも言わなければ、挫折しようが諦めようが他人には分からないよ… って。
だから、内に秘めておきたくなる。
でも、もしも誰かに「宣言」した上で成し遂げたなら、その喜びは自分ひとりで味わう喜びの何倍にもなるんじゃないだろうか。
なんの前触れもなくある日突然「完成しました!」って言うのと、ずっと見守って応援してきた人がついに成し遂げる瞬間に立ち会うのとでは、感動の度合いが違う気がする。
自分が応援していた立場なら、自分のことのように嬉しくて喜ぶだろうし。
例えば私は今回「はまみさんの野心」を知ったから、はまみさんがそれを成し遂げたと知ったらきっと自分のことのように喜ぶ。
少し話が逸れてしまうけれど、今年の7月頃から新たにはまっているアーティストがいまして。
NiziU(ニジュー)っていう、ガールズグループなんですけど、かなり話題になっているので知ってるよって方もいらっしゃるかも。
日本のソニーミュージックと韓国のJYPエンターテインメントによる日韓合同オーディション「Nizi Project」で選ばれた日本の女の子9人組。
オーディションの様子は日本のテレビ番組でも放送されていて、ちょうど自粛期間と重なっていたこともあり、多くの人の目にとまり、視聴者に勇気や元気を与えていたように思う。
私は、アメブロのフォロワーさんがブログで紹介しているのをきっかけに知って、あとは勝手にどんどん沼へはまっていった。
当時いろいろとお疲れモードだった私にとって彼女たちの直向きさは眩しくて、癒しで。
彼女たちの努力や、誠実さが見て取れるパフォーマンスに魅力され、取り憑かれたように動画を見ていたなぁ。
人の顔を覚えるのが苦手(服装や髪型が変わっただけで同一人物だと認識できなくなるレベル)な私が2週間ほどで全員の顔と名前を覚えたくらいなので、よっぽど夢中で観ていたんだと思う。
私はPerfumeも好きなのですが、Perfumeを好きになったときに少し似ている。
あの頃は産後うつみたいな状態で心が枯れそうだったけれど、そんな心の隙間にスッと入ってきたPerfumeの存在が日々を生きる力になっていた。
違うのは、Perfumeは私にとって「憧れのお姉さん」的存在だけど、NiziUは完全に「親目線」で応援しているところかな。
彼女たちが応援されている理由のひとつに、オーディションの様子を公開したことがあると思う。
彼女たちの努力の「過程」を目に見えるようにしたことで、そこに共感、感動が生まれ人気を集めた。
人気が出ると、その分否定的な声も目立ち始める。
彼女たちのデビューまでの「過程」を知らない人からすると、もしかしたら彼女たちの存在は大手事務所からゴリ押しされて急に話題になったアイドルとして、あまり歓迎できない面もあるのかもしれない。
大した努力もせずに成功しているように見えてしまうから。
(これは、アイドルに限らずいろんな場面で見かける光景だなと思う)
でも、これから彼女たちが活躍していくにつれて少しずつ真の魅力が伝わるだろうと信じている。
出来ることなら、誰の悪意にもさらされることなく活動していけますように。あぁ、これが親心(?)
※このnoteを投稿した後、デビュー曲のMVが公開されていたので載せておきます。ミイヒちゃん…!
歌詞の内容をすべて聴き取れたわけじゃないけれど、このnoteに書いてることと重なる部分があるような気がして。
「私の歩幅で」「私だけのペースで」「私は私で」
時には休んでも、躓いても、ゆっくりでもいいから、自分らしく歩いていきたいな。
話を元に戻します。
何かを成し遂げようとするとき、誰にも打ち明けず、ひとりでコツコツと努力し成し遂げる。それだってあり。めちゃくちゃカッコいいと思う。
でも、誰かの力に支えられながら、周りを巻き込んで何かを成し遂げるのもきっととてもカッコいい。
私はどっちがいいのだろうか。
さてさて。
小説を書きたいと言いつつ、私はいつも関係ない文章ばかり書いているな。
そんな暇あったら小説書きなよって、セルフつっこみしてしまう。
でも、関係ない文章も、そのひとつひとつはきっと無駄じゃない。と思いたい。
文章に限らず、普段私が生活していく中で出会うさまざまなこと、そのひとつひとつが物語を彩る大事な一員だと思っている。
…やっぱり私は、焦って書くのは無理そうだ。
こんなんじゃ、完成はいつになることらやら。
もしも万が一、小説を書き上げるより先に、なんらかの好機が訪れて借金を返済できたら…?
生活が苦しくなくなったら…?
私のモチベーションはどうなるだろう。
小説を書くという長距離走はとても苦しいから、苦しまなくていいならリタイアしてしまうかもしれない。
でもきっと、諦めた分だけ「成し遂げる」ことへの憧れは強くなってしまう。
今度こそ、走りきってみたい。
モチベーション以前に、様々な理由で心が折れてしまうことだってあるかもしれない。人生は平坦ではないから。
文章を書くどころではなくなるような出来事だって起こってしまうかもしれない。今までにもあったから。
それでも、いつか乗り越えた先で何度でも私は筆を取りたい。
突然の昔話ですが、私は昔から運動が全然ダメで。
逆上がりも二重跳びもできなかったし、チームワークが必要な球技の類も苦手。50メートル走は12秒かかってしまう。
そんな私だけど、唯一… 長距離走だけは成績がよかった(あと、習っていたので水泳も多少は…)
そのことに気付いたのは、小5のマラソン大会のときだったかな。
普段運動がダメな私が、長距離走だけは運動部の人たちにも劣らなかった。
「すごいじゃん」と一目置かれた。
まぐれ…じゃなかった。中学でも、高校でも、ずっとそうだった。
でも、運動部の人たちが本当の本気を出したらおそらく私は敵わない。
私が速かった理由、それは多分「走り出したら止まれなかったから」
他の人たちが途中で歩いたり休んでいる間も、私は一定のペースで走り続けていた。
止まってしまったら、もう二度と走り出せなくなるような気がしたから、ゴールと言われるまで走り続けた。
そうしたら、いつの間にか「速い」と言われる位置にいた。
それが無茶なことだと今はわかる。
学校のマラソンはゴールがあるって知っているからいいけど、ゴールが果てしなかったら…?
そんな走り方してたら確実に倒れる。最悪、一生走れなくなるかもしれない。
走り続けるために、時には休むことも必要なんだと少しずつだけど身体で解ってきた。
それに今の私は、例え少し休んでも、もう一度走り出せることを知っている。
大丈夫、止まることを恐れなくていい。
臆病で、すぐにどこかへ逃げ隠れようとする私の野心。
しっかり手をとって、離さないように一緒に走るんだ。
成し遂げたときに見える景色を、いつか一緒に見たいから。
だからそれまで、筆を止めるな。
がんばれ私と、私の野心。
そして、あなたの野心。
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