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「夢と知りせば」1-3うき我を 「金福寺」



ああ、どうしてこんなことになってしまったの。

恵文社を出たわたしは、海のように波打つ心臓を悟られまいときゅっと唇を噛んで、間崎教授の隣を歩いていた。「連れていってください」だなんて、勢いとはいえばかなことを言ったものだ。お互い顔は知っていたけれど、会話をするのは今日が初めてなのに。大勢いる学生のうちのひとりでしかないわたしが、いきなり教授に京都を案内してもらうなんて、差し出がましいことこの上ない。

ちらり、と隣を歩く教授を見ると、わたしの存在なんて認識していないように、前だけを見て歩いている。先ほどからまったく会話が続かない。何か言わなくては、と口を開いてはみるものの、「いい天気ですね」とか「今日はあたたかいですね」とか、当たり障りのない一言で終わってしまう。言ったそばから泡のように弾けて消える、言葉とは、なんて儚いのだろう。

曼殊院通をひたすら東に、白川通を渡って、狭い道をどんどん進む。会話らしい会話がないまま、目を合わせることすらしないまま、肩を並べて歩いていく。緊張しすぎて呼吸がしづらい。意味もなく気持ちが沈んでしまって、自分の足元ばかり見ている。

「ここだよ」

教授の一言で顔を上げると、目の前には石の階段と、「佛日山 金福寺」と刻まれた石碑があった。ここが、教授の言っていた金福寺。わたしがまだ知らない場所。

お寺を訪れるのは、小学校の修学旅行以来かもしれない。階段の先にある門が別世界の入り口みたいにわたしを迎えているような気がして、長らく忘れていた、幼い頃の好奇心を思い出した。慣れ親しんだ土地ではもう味わえない、初めての場所に足を踏み入れる時の高揚感。先の見えない小径。名前の知らない花。未知というものは、いつだって感動の種。知っていたはずなのに、どうして今まで忘れていたのだろう。

階段を一段ずつ上っていくにつれ、小説のページをめくる時のような焦燥が溢れて、門の上まで一気に駆け上りたくなった。だけどもうわたしは18歳で、大学生で、隣には大学教授がいるのだから、そういうわけにもいかなくってもどかしい。ああ、この体を置いて、魂だけ上まで飛ばせたらいいのに!

階段を上り終えると、目の前には受付、そして右手には「芭蕉庵」と書かれた門があった。芭蕉って、江戸時代の俳人である松尾芭蕉のことかしら。知らない場所で知っている名前と出会うなんて思ってもみなかった。ここは一体どんな場所なのだろう。そんなことを考えているうちに、受付を済ませた教授がわたしにパンフレットを差し出した。いつの間にか参拝料を払ってくれたらしい。

「あっ、すみません」

わたしは慌ててパンフレットを受け取った。財布を出そうとしたら、いいよ、と制された。茂庵に続いてまた借りを作ってしまったわ、と、微かな喜びと申し訳なさが、半分半分。こういうの、わたし慣れていない。

別世界に飛び込むような気持ちで門をくぐると、どこからかにゃあ、と、かわいらしい鳴き声が聞こえてきた。きょろきょろとあたりを見渡してみると、わたしたちを迎えるように、三毛猫がこちらへ歩いてくる。

「やぁ、久しぶり」

教授は旧友に挨拶するように膝を折り、三毛猫の背中をそっと撫でた。三毛猫は甘えるように喉を鳴らし、教授の腕に頬をすり寄せてくる。

「お知り合いですか?」

「金福寺の福さんです。ほら、あなたもご挨拶しなさい」

福さんと呼ばれたその猫は、恋敵を見るような目をわたしに向けた。どうやら警戒されているらしい。初めまして、と頭を下げ、おそるおそる手を伸ばす。福さんはにゃあ、とひと鳴きし、逃げるように本堂へ走っていった。

「きらわれましたね」

所在なく伸ばされたわたしの手を見て、教授が嘲るように鼻で笑った。予想外の毒を吐かれ、わたしはむぅっと頬を膨らませた。教授には懐いているくせに。なぜわたしには素っ気ないの。腑に落ちない。まったくもって腑に落ちない。

靴を脱いで本堂に上がったわたしたちは、畳の上に腰を下ろして、枯淡な庭園をぼんやりと眺めた。サツキの築山と白砂の、簡素な枯山水。観光シーズンを除けば混み合うことはないのだ、と教授が言う。その言葉通り、わたしたち以外に人影はない。聞こえてくる音といえば、ささやくような木々の揺らぎと、福さんの、ひとりごとのような鳴き声だけ。

深まった春のあたたかな光が、砂の一粒一粒を、きらりきらりときらめかせている。さぁぁ、と、木々を静かに揺らす風が、子守唄のように鼓膜を揺らした。のっそりと縁側に出てきた福さんは、大あくびを一つすると、また体を丸めて昼寝を始めた。ひなたぼっこをするのが、福さんの日課なのかしら。ぽかぽか陽気に身を浸しながら、のんびりとまどろむ。それって最上級の贅沢じゃない。

福さんの邪魔をしないように気をつけながら、わたしと教授は静かに本堂から出た。トントン、と靴のつま先で地面を叩いていたら、門のすぐそばに、何かがあることに気づいた。先ほどは福さんに気を取られ、すっかり見落としていたのだ。柄杓が上に置かれていて、中には水がたまっている。なんとなく、見覚えがある。確か、蹲(つくばい)という名前だった気がする。だけどなんだか、わたしの知っているものと違う。昔の貨幣を模したような、ふしぎな形をしている。



「間崎教授、これは何ですか?」

思わずそう尋ねると、教授はああ、と、先に進もうとしていた足をとめた。

「それは『知足の蹲』。真ん中の『口』という部分が共通しているんだ。時計回りに読んでごらん」

「『吾唯足知』……われ、ただ、足るを知る?」

「そう。知足とは足るを知ること。自分の身分をわきまえて、貪りの心を起こさぬこと」

「へぇ……初めて見ました」

講義のような説明に感心しながら、わたしはカメラを手に取った。教授に教えてもらわなければ、きっと、そこに示されている文字すら読めなかっただろう。写真を1枚撮って顔を上げると、隣にいたはずの教授がいない。すたすたと先へ進んでいく広い背中を見つけ、わたしは慌ててあとを追った。

「舟橋聖一の、『花の生涯』という本を知っていますか」

丘に続く坂道を上っていると、教授が、ひとりごとのように問いかけてきた。尋ねてはいるけれど、きっとわたしの答えなんて期待していない。その証拠に、わたしが口を開くより先に、あっさり続きを話していく。

「大河ドラマにもなった歴史小説でね。そこに出てくるヒロインの村山たか女が入寺し、生涯を閉じた場所とされるのが、ここ、金福寺なんですよ」

「小説の舞台にもなっているなんて、すごい場所なんですね」

坂の途中で本堂を振り返る。大きなお寺とは違う、ささやかな本堂と庭。大きすぎないこの敷地が、きっと心が穏やかになる理由の一つなんだろう。ぬくぬくと体を丸める福さんの、安らかな寝顔が目に入った。猫が落ち着いてくつろげるような静けさこそが、金福寺の魅力なのだろう。ここを舞台にした小説を書きたくなる作者の気持ちが分かる気がする。

坂を上り切った先に建っていたのは、茅葺き屋根の草庵だった。わたしたちがここに来るのを、何百年も前から待っていたような雰囲気だ。緑の木々に囲まれたずっしりとした佇まいは、懐かしさすらわたしに抱かせた。

「ここは芭蕉庵。金福寺を再興した鉄舟和尚と松尾芭蕉が、風流を語り合ったとされる場所です」

「松尾芭蕉がここに来たんですか?」

「そう。鉄舟和尚と芭蕉は親交が深くてね。時とともに荒廃してしまったので、のちに芭蕉を敬慕する与謝蕪村と、その一門が復興したんです。『耳目肺腸ここに玉巻く芭蕉庵』という句には、芭蕉の俳諧精神復興を目指す、蕪村の強い決意が込められているんですよ」

「……さすが、お詳しいですね」

「このくらい普通です」

せっかくの褒め言葉も、どうやら素直に受け取る気はないらしい。なんだか、講義の時とずいぶん印象が違う。教授は縁側に腰かけて長い足を組んだ。影のある瞳で、遠くにいる誰かを思うように流れていく雲を眺める。その様子はもう非の打ちどころがないくらい絵になっているし、イメージにぴったりなのだけれど、口を開けば見た目にそぐわない言葉がぽろっとこぼれる。講義中には決して見せない素の部分が垣間見えた気がして、ちょっと新鮮な気分。

教授の隣に腰かけて、静けさの中に身を沈めた。呼吸をしているような緑に囲まれて、そっと目を閉じる。風が葉を揺らす音、そして、太陽の光。先ほどよりも鮮明に、わたしの五感を刺激する。春って、こんなに気持ちのよいものだったのね。

ああ、そういえば茂庵でも、こうして新緑に囲まれたっけ。5月初めの出来事を、わたしはぼんやりと思い出した。あの時は一言も言葉を交わさなかった。目を合わすことすらしなかった。それなのに、今はこうして金福寺をふたりで訪れ、同じ時間を共有している。これが縁、というやつかしら。それならば茂庵で出会ったのも、恵文社で出会ったのも、縁ってやつの仕業かしら。人生、何が起こるか分からない。

「……こら、こんなところで寝ないでください」

教授のあきれたような声で、ふっと、意識が現実へと引き戻された。目を開けると、隣にいる教授が、眉と眉を近づけてわたしを見ている。

「まだ昼寝には早いでしょう」

「ね、寝ていません。目を閉じていただけです」

かぁっと頬が熱くなるのを感じて、わたしは早口で言い訳を並べた。わたしの声なんて届いていないのか、教授はさっさとどこかへ歩いていく。やっぱりまだ会話は上手に続かなくって、目を合わせることすら緊張してしまう。講義を受けている時の方が、よっぽどこの人のことを身近に感じられる気がする。変なの。話したいこと、聞きたいこと、たくさんあったはずなのに。今は何も出てこないや。

芭蕉庵の裏側に回ると、草木の中で教授が何かをじっと見つめていた。一体何を見ているのだろう。気になって後ろからのぞき込んでみる。そこには、俳句の書かれた看板がひっそりと建てられていた。

『うき我をさびしがらせよかんこ鳥』

「……なんだか、さみしい句ですね」

それは、芭蕉が詠んだとされる俳句だった。かんこ鳥よ、物憂いわたしを一層さみしがらせておくれ、だなんて。芭蕉は、一体何を思ってこの俳句を詠んだのだろう。一体何が、そんなに悲しかったのだろう。思いを馳せても、ちっぽけなわたしには想像することすら難しい。

「……この俳句が、とても、すきなんです」

ぽつり、と、教授の口から漏れたその声は、袋からこぼれ落ちた一粒の金平糖のように小さくて、芭蕉の俳句と同じように、憂いを帯びたものだった。

「どうしてですか?」

気になって聞いてみたけれど、教授は黙ったまま、それ以上何も語ることはなかった。

そのまま奥に進んでいくと、突如、獰猛な風が皮膚を弾くように襲いかかってきた。咄嗟に目を閉じて、風が通り抜けてからまた目を開く。目の前に広がった景色に、はっと息を呑んだ。

そこにはどこまでも続く青空と、京都の街並みが広がっていた。わたしのマンション。先ほどまでいた恵文社。そして、教授とともに歩いた道のり。茂庵では見る機会を逃してしまった、この、海のように広がる洛中。視界を埋め尽くす、わたしの居場所。

――ああ、そうか。

これが、わたしのあこがれた街なんだ。

なぜだかじぃん、と、胸の奥が熱くなった。忙しさに追われて忘れていた。ずっとずっとあこがれていた。だいすきなカメラをしまいこんで、寝る間を惜しんで勉強して、模試の結果に一喜一憂して――そうして、ようやく手に入れた場所。わたしは、京都にやってきたんだ。

手に持っていたカメラを構え、パシャリ、とシャッターを切った。それまでぼんやりと洛中を見ていた教授が、シャッター音に反応したように振り返った。

「見ますか?」

「……あなたが見せたいんでしょう」

素直でない言い草にむっとしながら、カメラを教授に差し出した。わたしとカメラを交互に見てから、価値を確かめるみたいにのぞき込む。さて、腕前はどんなものか、見てやろうじゃないか、なんて、心の声が聞こえる気がする。でも、そんな脅しに動じるようなわたしじゃない。だってわたし、ずっとカメラに触れてきたんですもの。平凡なわたしの、たった一つの特技。それがこの、写真なんですもの。

茶色がかった教授の瞳が、宝石を映したように輝いた。宝箱をのぞき込むみたいに、顔をカメラに近づけて、写真の隅々までじっくりと見つめる。好奇心と、感動と、興奮を映したその瞳。少年のようなその表情を見た瞬間、また、強い風がわたしの心を揺さぶった。

「……美しい」

「このくらい普通です」

先ほどのお返しをしてやろうと、ここぞとばかりに胸を張る。だけど教授はまだ、写真から目を離さない。まるで網膜に焼きつけようとしているみたい。心に桜が咲いたように、なんだかとっても嬉しくなって、わたしはもう一度景色を眺めた。

京都に越してきて2ヶ月が経つのに、ほんのひとかけらも知らなかった。空がこんなにも広いこと。雲の動きが遅いこと。頬を撫でる風が優しいこと。歴史がこんなにもさみしいこと。そして教授の――

「……教授」

「何です」

「京都って、いいですねぇ」

「何を今更」

眼鏡の奥の茶色い瞳が、優しく優しく、わたしを包む。そのやわらかい表情に、わたしはつられて、ふひひと笑った。


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