「夢と知りせば」1-28咲きて散りなば「宝ヶ池公園」
「梅がきれいな場所?」
わたしの質問に、間崎教授はそれまで読んでいた本から顔を上げた。
3月初旬。晴れ、時々、曇り。冷たい冬の気配が少しずつ薄まり、太陽のあたたかさをより一層感じられるようになった、春の始まり。
教授室で掃除を手伝わされていたわたしは、「そう!」と大きくうなずいた。机に積み上げられた本を、1冊ずつ棚に戻していく。かれこれもう30分ほどこの作業を行っているのに、なかなか終わりが見えない。なぜ春休みなのにこんなことをしているのかというと、答えは簡単。たまたまキャンパスで遭遇したのが運の尽き、和菓子を餌に、ほぼ強制的に連れてこられたのだ。
「やっぱり今の時期は梅を撮りたいなぁって。教授、どこかおすすめの場所はありますか?」
「どうして私に聞くんだ。梅の名所くらい聞かなくても分かるだろう」
「だって教授に聞けば、穴場を教えてくれるかなって。あっ、でも教えたくないなら別にいいです。インターネットで調べるか、誰か他の人に聞きますから」
「どうして他の人に聞くんだ。……私に聞けば済むことだろう」
「だから今聞いてるんです」
この1年でなんとなく分かったことがある。この教授、年甲斐もなく負けずぎらいだ。教授はむっと口を曲げて本を閉じると、壁にかかっているカレンダーに目をやった。それから何かを確認するように手帳を広げ、
「明後日、何か予定はある?」
「いえ、特に……」
「京都国際会館で用事があってね。15時に終わるから、その時間にそこまで来てくれないか」
「いいですけど……梅を見にいくのに、国際会館?」
京都国際会館といえば、京都市内とはいえかなり北の方にある施設だ。名前は聞いたことがあるけれど、行ったことはないし、そもそも行く用事もない。そんなところに、梅の名所なんてあるのかしら。寺社があるイメージもないし、想像がつかない。
そう言いたげなわたしに気づいて、教授は意地悪く微笑んだ。
「当日までの、お楽しみ」
国立京都国際会館は、わたしの住む一乗寺からバスで10分ほどのところにある。バスを降りて建物の前にやってきたわたしは、荘厳な外観に圧倒され、館内に入るのに少々気後れした。
待ち合わせのためだけとはいえ、こんなところにわたしが来てもよかったのかしら。国際会館といえば、学会やセミナー、国際シンポジウムなど、ありとあらゆる会議が行われる場所、というのが、わたしの中のイメージだ。そしてやっぱりその予想はあたっていて、エントランスに入ってあたりを見渡すと、賢そうなスーツの人たちや、外国の人たちがたくさん歩いていた。耳をすまさなくても異国の言葉が入ってくるので、自然と体が強張る。ああ、どうしよう。もう少しちゃんとした服装で来ればよかった。リュックを背負ってカメラを下げているわたしは、ほんのちょっぴり、いや、かなり浮いている。
落ち着かなくってそわそわしていると、15分ほどしてようやく、見知った人物がこちらに近づいてきた。フォーマルな紺色のスーツを着て、腕にはコートをかけている。こういう厳かな場所でスーツに身を包んでいる教授を見ると、ああ、この人は、本来こういう場所が似合うのだ、と、改めて思った。
「すまない、遅くなった」
だけど近づいて言葉を交わしたら、いつもと同じ声、同じ表情で、やっぱり教授はわたしの知っている教授なんだわ、と安堵する。そしてまた、自分の幼さに気づいて、少しさみしくなるのである。心の風邪、みたいなこの感情は、春が、もうすぐそこまで来ているからかしら。
「教授、わたし、めちゃくちゃ浮いてます。いろんな外国の言葉が聞こえてくるし、賢そうな人がいっぱいいるし……」
「一応、うちの大学に受かったんでしょう」
おろおろしているわたしを見て、教授があきれた声を出した。普段褒めないくせに、こんな時だけそんなことを言わないでほしい。
「それで、どちらへ」
気を取り直して尋ねると、教授はコートを羽織りながら微笑んだ。
「ついてきなさい。すぐそこだ」
降り注ぐ太陽の光は春の色を含み、ずいぶんやわらかくなってはいるけれど、やはり風はまだまだ冷たくて、春物のコートはまだ着ることができない。冬と春の中間みたいなカーディガンが、わたしを寒さから守ってくれる。
京都国際会館を出てすぐのところにある宝ヶ池公園は、宝ヶ池と呼ばれる大きな池を中心とした、巨大な自然公園だ。見上げた空はどこまでも青く、いつもより何倍も広く透き通っている。ふわふわとした芝生の感触が、靴の裏から伝わって少しこそばゆい。排気ガスに汚されていない透明な酸素を吸い込んで、脱力するように思い切り吐き出す。そうすると、体の中の不純物が一気に排出されたようで、清々しい気分になった。
「少し意外です。教授って、公園に行くイメージがないから」
「たまには、こういうのもいいでしょう」
広い公園には、元気に走り回っている子供たちや、散歩をしているお年寄りなど、さまざまな世代の人がいて、まさに市民の憩いの場という感じだ。わたしも小学生の頃は、ああやって公園で遊んでいたっけ。
わたしと同い年くらいの男の子が、女の子にカメラを向けているのが見えた。恋人同士だろうか。長い髪と花柄のワンピースが風にたなびいて、風景によくなじんでいる。ちょっと照れくさそうにはにかむ女の子がかわいい。男の子は楽しそうに笑いながら、何度も何度もシャッターを切っている。遠く離れていても、幸せな空気が伝わってくる。
「そういえば君は、人は撮らないと言っていたね」
わたしの視線を追いかけて、教授が思い出したように尋ねてきた。わたし、そんなことを言ったっけ。確か恵文社で出会った時、言ったような、言わなかったような。
「そうですね、人物を撮るより、風景を撮ることの方が多かったです。撮りたいと思うような人も、特にいなかったし……。それより今は、京都の素敵な風景をたくさん撮りたいなぁって」
そう、と教授は小さくうなずいて、また前を向いて歩いていった。わたしもそのあとに続いて足を進める。カメラを持つ男の子、と、写真に撮られる女の子。もう視界には入っていないのに、まばたきをするたび、ふたりの光景がちらちらと浮かんだ。心の隅っこをやわらかな綿棒で突き刺されているような、変な気分だ。
どうしてかしら。どうしてこんなに気になるの。
そうこうしているうちに、お目当ての梅林にたどり着いた。まだ盛りには少し早いけれど、紅白の梅がずらりと並んでいる。
「わぁっ、梅がたくさん!」
「200本ほどあるからね。これからもっときれいになるよ」
「ここなら落ち着いて梅を見ることができますね。実家にいた頃も、何度か梅や桜を撮りにいったことはあるんですけど、どこも人がいっぱいで……」
こんなに梅が咲き誇っているのに、まわりには家族連れが1組いるだけだ。おかげで、こうしてカメラを構えても、人影に邪魔をされる心配はない。
ファインダーをのぞいて、シャッターを切っていく。青空を背景にぽっとほころぶ、小さな梅の花。こうして顔を近づけてみると、気品のある甘い香りが、やわらかくわたしを包んでいく。
「いい香り。そういえば、昔は桜じゃなくて梅を詠んだ和歌の方が多かったんですよね」
「何でそんなことを知っているんだ……熱でもあるのか」
「一応、あなたのいる大学に受かりましたので」
声に嫌味を乗せて言い返す。もうすぐ新年度なのだから、そろそろこういうやりとりも終わりにしたい。
高校生の時、古文の先生が言っていた。万葉集には、梅を詠んだ和歌が桜の倍以上も載っているけれど、古今和歌集になると、桜の歌は100首以上、梅の歌は20首にも満たない。諸説あるけれど、遣唐使の廃止によって中国の影響が薄れたという説が有力視されているんだとか。
どちらも変わらず美しいのに、時代によって歌に詠まれる数に差異があるのは、ある意味とても興味深いな、と思う。わたしたちが今、あたりまえのように感じていること。思っていること。習慣。美意識。それらは初めからあったものではなく、長い年月をかけてむくむくと育ってきたものなのだ。そしてそれを育てたのは、間違いなくこの、日本に溢れる美しさ。
「教授は、桜と梅、どちらがすきですか?」
ふと気になって聞いてみた。この人に根づく美意識を、のぞいてみたいと思った。あたたかな日差しを味わうように目を細めながら、鮮やかな花を眺めているこの人の、心の中を、知りたいと思った。
「選ぶことはできないな。桜の、遠くからでも目を引く絢爛さも、梅の、慎ましやかな美しさも、春の風景によくなじむ。それに……」
「それに……?」
「梅のあとを追いかけるように桜が咲く。だからかな。梅と桜は、切り離して考えられないんだ」
愛情を注ぐように、梅の花に笑いかける。その横顔の優しさが、透明な風によく似合った。わたしはカメラを構えるのも忘れて、時がとまったように教授を見つめた。
はらはらと花弁が散るように、心の中がざわついた。梅の枝が風に揺さぶられ、わたしの代わりに震えている。
散っても、また次の美がやってくる。バトンを渡すように、春を、継いでいく。咲いている時を見て、散り落ちる時を想像するあなたの心。あなたの価値観。あなたの美意識。それはいつも、わたしにとって新鮮で、いつだって、はっと息を呑むような感情を芽生えさせる。一つ一つの言葉が心の水面に落ち、波紋のように広がりを見せ、そうしてまた根づいていく。わたしの価値観。わたしの美意識。
もう一度、カメラを構える。どんな場所でもそう。教授の話を聞く前後では、景色の見え方がまったく違う。美しくって、かわいらしくって、尊い、この梅の花。ついさっきまで、きれいね、ああ、美しいわね、なんて、子供をあやすように愛でていたのに、今はこの儚い美しさが、とてもさみしげに映る。
シャッターを切って、画面に映る梅を見た。青い空と、白い雲と、ぽっと色を添える紅の梅。すぐに消えてしまう美しさを、ぎゅうっと写真に閉じ込めて見せると、教授はいつものように、愛しそうに微笑んだ。