監視資本主義批判の前提 ハイデガー〜マトリックス〜ズボフに共通するもの
監視資本主義の問題点について、こちらでズボフの「監視資本主義」を要約して解説した。
この記事では、その前提となる、そもそも、ズボフらの悲観的技術論に共通するロジックについて、「ハイデガー〜マトリックス〜ズボフに共通するもの」としてお話したい。このロジックについて、馴染みがない人も多いようで、ここでしっかり書いておく必要があるのかもしれない。読めばすぐわかる簡単な話である。ざっくりいうと「テクノロジー、または(テクノロジーを使って)社会は、自然や人を用立てて、自然や人を原材料としてしか見なくなる」のは問題だと言う話である。
「テクノロジーは用立てる」とは?
この用立てるというのは、ハイデガーの技術に関するとても有名な論考である「技術への問い」の邦訳で繰り返し使われる言葉で、「現代技術は自然を用立てる」という意味で使用されている(ドイツ語は何だったかは手元に本がないのでわからないけど)。この用立てるとは辞書的には、
となる。ここでは、この意味の中の「役に立たせる」という意味である。つまり、ハイデガーは、「テクノロジーは、自然を役に立つものに変えてしまうから問題だ」といったのだ。日本語にしてしまうと、何が問題なの?というかんじだが、ドイツ語の意味では「立てる」というニュアンスがつよく、「現代技術は、自然を人間に役立つものであるかのように強引に立たせる。」といった意味合いで、「技術への問い」ではつかわれている。
そして、ズボフは書籍の中で、人間は、農業によって土地を用立て、産業革命以後に、自然を用立て、そして、今、監視資本主義は、人間そのものを用立てようとしている、と言っている。ハイデガーも「人的資源(Human Resources)」(原書はドイツ語だけど)という言葉を出してきて、今やテクノロジーは人を用立てていると批判する。
(ここで、ハイデガーは主語が現代技術で、ズボフは監視資本主義が主語である点に気づいたかもしれないが、ここには技術決定論者と社会構成主義者のような違いがあるのだが、この記事では詳しくは触れない(この差は、両者の主張の大きな違いでもあるが、ここではそこに触れる必要がない話のみをする)。)
テクノロジーは、自然を在庫にする
そして、用立てた結果、自然や人間は「原材料」という「在庫(ストック)」になるというわけだ。ハイデガーは、ダムは川を電力のための原材料でありそのストック(これから用立てられるべき運命にあるもの)にしてしまっていると批判する。そして、ズボフは、監視資本主義は人を計算力(コンピュータ)のための原材料でありストックにしていると批判する。その結果、現代社会は、自然や人間に、原材料としての意味しか与えられなくなる!!!と批判するわけである。これが人間の尊厳を重視する悲観的技術論者たちの言い分である。ここで書いたように、監視資本主義の「人間には原材料としての意味しか与えない前提で、徹底的にシステムを構築してく姿」は、恐ろしく、まさにディストピアだろう。
テクノロジーの救いの道は? 人間本来の価値とは?
では、われわれ人間はどうしたらいいのだろうか。そこに救いの道はあるのだろうか。まさに、ハイデガーは「救い」について語る(これももとのドイツ語だと日本語の救いとは少しニュアンスがちがうようだけど)。ハイデガーは、テクノロジーの語源であるテクネーでありアートに救いの道があるという。私は、ハイデガーは、本来、テクノロジーは、テクネーやアートと同じように「真理(アレーテイア)を明らかにする(ポイエーシス)機能をもつ」ので、その本来の働きをじゅうぶんに発揮させるようにすればよく、テクノロジーをよりアート的なものへと回帰させるべきだといいたいのだと解釈している。ハイデガーはアートにテクノロジー本来的姿を、ズボフは自由意志に人間の尊厳であり価値をもとめ、それを「取り戻す」べきだと主張する。
人間が人間でなくなり原材料でしかなくなることはとても悲しいことだ。まさに、映画マトリックスである。映画マトリックスでは、ついに人間は完全に原材料でしかなくなった。その原材料を使って、テクノロジー的存在(ゼロワン(01))が自らの存続のための電力を得る。この構図と監視資本主義社会の構図はどう違うというのか? ザイオンの人々も人間本来の姿を求め、彼らは革命であり正義に人間の価値を見出す。
このように、これらに共通するロジックは同じである。テクノロジー、ないし、外部者がテクノロジーを介して、自然や人間を原材料としてしまう結果、その社会において、自然や人間は原材料としての意味しか持てなくなると、人間の本来の価値が、見失われてしまう、というものである。
以上が、共通するロジックである。いかがだろうか。
私の感想
個人的には、このロジックは、片手落ちだと思っている。なぜなら、自然や人間を原材料にすることによってつくられる社会と人間の生活の分析において、人間や自然、テクノロジーをそれぞれ分離して論じるこのやり方では、それらが一体となって織りなしている無機的でかつ有機的な、非二元的なあり方について、全く理解することができないからだ。生命=機械ではなくまた、生命≠機械でもない。その微妙な関係性、円環性、再帰性を全く無視しているのだ(もちろん、ハイデガーに限っては、「救い」はそれを指すはずだが)。
そのテクノロジーであり機械と人であり生命の「微妙な関係性、円環性、再帰性」とはなにか? それを探求すること自体がわたしがテクノロジーの哲学をやっている理由なのだけども、今は、たとえば、ユク・ホイという技術哲学者の「再帰性と偶然性」という本にかかれていることに共感している。
ユク・ホイたちは、サイバネティクスの有機的な機械論を、現代に蘇らせようとしている。機械と生命の分離はないのならば、ディストピアもそもそもないのである。しかし、これを説得するほどの理解はまだ私にはない。また書けそうになったら書いてみたい。
一応ここでの「機能主義的転回」も、機械と生命の=でも≠でもない関係をいいたいのだけども。。