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違いは『理解』するものなのか?と考えだしたら、沼にはまった

こんにちは&はじめまして ななるです。

19時にレストランに行くと、賄いを食べている。10歳未満の子どもでも平気で0時近くまで起きているし、休みは朝12時過ぎても親が起こさない。昼ごはんに集まろうとなったら、11時半ごろから16時ごろまで、ひたすら食べている。違いに驚く毎日に、ふと考えた。「違いは理解するものなのか?」

「フランス共和国」と衝突事故を起こして、人生のベクトルがカックンと移動したと思ったら、なぜかフランスで暮らすことになりました。

ローマにいるなら、ローマ人に倣え(When in Rome do as the Romans do.)

『ローマ人に倣うなら、ローマ人を観察しよう』(Byななる)と、フランス人を観察し続け・・・何年でしょう?

フランス人に倣えと行動し始め、「異文化を理解する」という表現に、じわじわ違和感を覚えています。


この国は夕食の時間が、やたらに遅い。

子どもの頃、就寝時間は21時でした。

小学校の高学年、中学になる頃まで、どんなに遅くても、22時頃までには寝ていたと記憶しています。

夜中まで起きていられるのは、年末年始か特別な日だけ。年に数日しかありませんでした。

フランスにいると、夕食が始まるのが、下手をすると21時です。

19時ごろに夕食にしようとすると、変な顔をされます。

レストランに入って、18時半頃、スタッフがまかないを食べていた(開店しているのに!笑)というハプニングも時々あります。そんな時間には客がこないんだよ、ほとんど。

夏になると空は23時頃まで明るいし、冬になると朝9時でも太陽がでないうえに、16時には暗くなり始める。

夏場に時計をあわせたら、とてもじゃないけど21時になんて眠れないかも、外は昼間みたいに明るいし。とは、考えます。

共働きの多いフランス、親の帰宅時間も遅いでしょう?と考えるなら、それは嘘。遅くないから。そして、冷凍の神様[Picard]の国、手が込んだ食事はつくらないから。

だから親の帰宅が・・・や、食事の準備が・・・は、夕食が遅くなる理由ではないらしい。単純に、遅い。

食事は恐ろしく、亀のようなあゆみ

家族の食事に招待された。

昼食だというから、夕方には帰れるかと考えていたら、家に着いたら24時だった。集合時間は11時半だった。

何が起きたか?

11時半に集合といわれて、時間どおりに全員が揃うことはまずない。

このあたり、日本人は異常なほど時間に厳しい。

来たひとから三々五々、シャンパーニュやつまみを楽しみながら、会話で場を温める。かれこれ、1時間は余裕。

13時頃食事が始まると、メインと野菜料理、イモなど出てくる。

終わったらサラダ、それからチーズプレート。最後に、デザート。

この工程、ざっと3-4時間ほど。

おしゃべりが続いていたかと思ったら、なぜかサラダが再登場。

そしてなぜか、新しいメイン料理が登場し、食事に再突入・・・。

招かれたら、早々に帰ってはいけない。昼食を終えて、おしゃべりして、サラダの前に帰ろうものなら、「どうしたの?」と問われる。

ながっ尻は嫌われる。のではなく、ながっ尻は礼儀なのです。

衝撃、ベッドにすんでるのか、君は!

アメリカでも日本でも、早起きは三文の得です。

休みの日には、誰も起きてこない。

土曜日は買い物の日だから、町は早起きです。

日曜日は驚く。12時近くまで、結構どこも閑散としています。

日曜は店も休み(昔は、スーパーも)、ベーカリーと花屋くらいしかあいてい。カソリック国教の国だけあって、町に片手以上の教会があり、皆、日曜ミサにでているのだと思っていた。

どうやら大違いで、寝てるひとが多いらしい。

フランス人はベッドで朝食をとると云われていたくらい、フランス人はベッドが好き。Clichéだと云われたが、じゃあ、なぜ起きてこないんだ?

目が覚めても、いつまでもベッドにいる。

私に云わせたら「グダグダ」いる。

下手すると、14時過ぎてもベッドにいる。夜が遅いからか?

寝穢(いぎたな)いという言葉があるが、私は、かなり長い間、『寝汚い』だと信じで疑わなかった(笑)くらい、いつまでも寝ているのも、寝床にいるのも、生理的に受けつけない。

けり起してやりたいが、手を触れない。これが彼らの生き方なら。

そもそも、理解するってなんだろう?

 生まれ育った以外の国で暮らすと、【わお】と驚いたり、【へー】と感心したり、【うわー】と拒否反応が起きたりします。

あれこれ感じとりはするし、反応もするけれど、【なるほど、ここではこうなんだな】と納得します。

強弱はあれ、付き合いのある知人や友人と一緒にいても、このあたりは同じ。べつに、国の違いだけの問題ではありません。

私にとって、世界は「自分」と「それ以外」。

ひととの付き合いも、新しい国との付き合いも、違いをひとつずつ認識する作業の積み重ねで、時には積み重ねなかで『Eureka!』な瞬間もあるけれど、これが「理解」なのかと云われると、正直、全くわかりません。


『話の聴き方』の中では、共感と同調。

彼らの生き方に共感こそすれ、同調はできない。

共感は、「他者の意見・行動に、寄り添うこと」。同調は、「他者の気持ちを共有すること」。

『私』と『周囲』の間には、いつも、隙間がある。正面から見ても重なって見えるくらい、ぴたりとそばにあっても、髪の毛1本分以上の隙間が絶対にあるのです。

時には似たような体験があったり、似たような感情を持ったり、『同調』しこそすれ、「理解はしていない」。なんかね、理解ってなんだろう?

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