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君は何かが足りてない。だから僕は好きなんだ

「アイスコーヒー、ふたつ」
いつものコーヒースタンドでテイクアウトをする。期間限定デザインの紙袋に入ったそれは季節感などを演出してしまうから、浮かれてしまうけれど、切なくなる。

だってわたしは今から、お別れをしに行くのだから。

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駅から徒歩五分、階段をのぼって振り返り見える景色を、わたしはいつもひとりで見た。彼に会いに行くために通る道のはずなのに、その景色を分かち合うことは今まで一度だってなかったし、これからもきっと、ない。

階段の先、不安定な細い道を行く。いつも浮かれて通っていたから気付かなかった。こんなにも整備されてなくて、不安定な道路だったということを今日初めて知った。彼と一緒にいるということは綱渡りのようなものだよと、向かう道はずっとわたしに語りかけていてくれたのだ。

その先に立つ彼、いつも手ぶらだったのに、どうやら同じ紙袋を持っている。

「あれ、買ってきたの」

そのコーヒースタンドはこの近所にはないから、わざわざ買ってきてくれたのかと少し決意が揺らぐ。彼がアイスコーヒーをわたしに差し出す。わたしも、アイスコーヒーを彼に渡した。

あたらしいことを始めるとね、できないことがたくさん現れて、それを自分のものにすると満たされる。満たされると安心する。安心に勝るものはないっていつも思う。でも、安心に浸れば浸るほど、変わらない自分が見えて嫌になる。ずっと安心していたいのに、変わらずにはいられない。ずっとここにはいられないなんて思って、またすぐにあたらしいところへ飛び出してしまう。そうすると安心は消えて、また切なくなってしまうのに。

そんなことを口にすると、しばらくストローを口にくわえたまま彼は空を見上げた。
「僕はさ」とアイスコーヒーの氷をゴロゴロとしながら彼は言う。

君はなんでも持っていると思っていたんだ。それが強さの秘訣だと思っていたけれど、違った。だって、君は外ではいつも気を張って、家に入った途端に一人で泣いてしまうようなひとだし。急に何もかも放棄して、いなくなってしまうし。すべてを失っても、君はいつだって笑っているし戦っている。それこそが強さだと思った。変化し続けないといけない、なんて考えが君のその「物足りなさ」をつくっているのかもしれない。物足りない、でも、だからクセになる。君は何かが足りてない。でも、だから好きなんだ。

きっと彼は、今日がお別れだと知っている。だからわざわざコーヒーを買い、今も隣で氷をゴロゴロとしている。この魔法をふたりで使うことは、きっともうない。それぞれ別の場所で、もしかしたら辛くなった時にゴロゴロと音を立て、「好きだった」なんていうあたたかい気持ちだけを頼りに生きて行くのかもしれない。

過去が好きだ。しがみついていられないからこそ、わたしは過去が、好きだ。

「でも、だから好きなんだ」という彼の言葉に私はいつも救われた。少し目を伏せて、それでもくるりとカールした上向きのまつげが好きだった。

気づいたら二人ともアイスコーヒーを二杯ずつ飲み干していた。魔法、もう溶けるねなんて彼は言うから。読んだのね、私の書いたサムシング、と心の中で呟いた。

「ねえ」
最後だし、聞いておこう。

きみにとって、私はどんな風なの。
秘密。そう笑って彼はごまかし、わたしたちはさよならをした。帰り道、下る階段の途中でメールが来る。

君への感情に名前をつけてしまったら、君の魅力を壊してしまいそうでこわかった。君は僕が羨ましいといつも言ったけど、僕は君が羨ましかった。僕こそいつだって、君の語る僕になりたいと思ってた。君の語る僕が好きだったんだ、本当に。

──────

もうあの魔法が使えなくなって、何年もたった気分でいる。季節がいくつ過ぎて、何度あたらしい恋をしただろう。

きっと彼は知らない。あの日の階段の先、振り返り見える夕暮れはあまりにも赤かったということを。それでも、泣いてしまうなんてもったいないと言い聞かせて、今日も笑って生きているなんてことも。彼は、きっと知らない。

今日もわたしは、コーヒースタンドにいる。外はまだ寒い、それでも懲りずに口にするのだ。

「アイスコーヒー、ひとつください」

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Nana
読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。