タラヨウの葉
彼が指さして「気になる」と言った中華料理店の不思議な佇まいだけが、今でもずっと脳裏にある。思い出せることなんて、ほとんどない。ただ、笑顔とともに消えないのはあの日の風景だ。
どの地域にも1つはある、独特の雰囲気をもった中華料理店。見覚えがあって、でも不自然なそれにもちろん心を奪われる。通るときに息を多めに吸ってみたり、横目でちょっぴり覗いてみたり。
あの頃はまだ、都会での生活に慣れてなくて、ふるさとからすこしずつ北へ東へ。だからわたしは右側がいつまでも好きで、なにかの左側が好きで、そして彼は右を指差し「気になる」と言ってしまうから。
そんな体験と佇まいは、急にわたしの脳裏をよぎる。誰かが右側を追い越したとき、右側で大きな音がしたとき、彼の不調が脳内同期された気がするとき。
そう、わたしは彼の、青いところが好きだった。ふつうのことを、ふつうだよねって雰囲気のままに言葉にするところが好きだった。というか、ふつうのことなのに特別なことを言っているような気がして好きだった。
ぜったいに彼は、「わたしを選ぶという不正解」を選ばないから好きだった。
なかなか感情を濾過できないわたしを、無意識に支えてくれた。わたしが大好きなアイスコーヒーを、これでしょ、っていつも差し出してくれた。ああ、なんで手離してしまったのか。右側に余韻を感じるとき、たまに思ってしまうけれど。
きみが幸せにするべきはわたしじゃない、と言ったときの彼の顔を、わたしは一生忘れられないのだと思う。
「タラヨウ」
と彼は突然つぶやいた。なにそれ、と聞くと彼はつづけた。
昔、手紙を書くときに使われた葉っぱなんだって。今ってどこにでも言葉を書けるけど、それをゆっくり自分の中であたためて大事にしているところを、本当に尊敬している。昔のひともきっと、書くところが限られていたからこそ、記す言葉をゆっくり選択していたと思うんだ。
だからタラヨウみたいだね、きみの言葉は。なんて言うから、照れくさくなって「なにそれ、へんなの」って笑ってごまかした。
あの日のコーヒー、おいしかったな。
でももう、ホットコーヒー派になっちゃった。
ただ、
しばらくたった今でも、本当に思うことがある。
きみはなんにでもなれるよ、ぜったい。