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「つらいけど頑張る」の危うさについて
耐える、頑張る、我慢する、戦う…10代の頃シャワーのように浴びた言葉たちだが、当時わたしを奮い立たせてくれた記憶はあまりない。
特にそれが、何も知らない人からの言葉であればなおさら。
いろいろ定義はあるけれど、わたしにとって大人とは「経済的に一人でも生きていける人」だった。誰でも一度は通る道だろうが、とにかく早く大人になりたかった。
どうしてか。わたしの定義通りの大人になれば、自分はすべての呪縛から開放されて好きに生きていけると思ったからだ。
どうしても早く大人になりたくて、つらくても頑張った。でもその先にあったのは明るい未来ではない。ストレスで声が出なくなったり、毎日マンションのベランダから下を見下ろしたりする日々だった。
正直あの頃をどうやって乗り切ったのか覚えていない。でも、「学校に行く」と家を出て図書館に行き、本の中の別世界線上で生きる自分を想像することが救いだった。
大学生になり、バイトをして気づいたことがあった。経済的に一人で生きていけるひとたちに対して感じる「大人気ない」という感情。
生きていると少なからず理不尽なことや、相手の感情に振り回される。例えわたしが立派な大人になったとしても、外的要因を解決しない限りすべての呪縛から開放されることも、好きに生きていけることもないと知った。
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「つらいけど頑張れ」
何も知らない人間からの無責任なそれが連れて行くのは「消えたい」という感情へのルートのみ。
つらいけど(あなたが大変なのはもちろん分かっていると伝える保険をかけたような言葉を添えて)頑張れ(応援してる)
どうしてもそんな風に感じて、何も知らないのに無責任なことを言わないでと思ってしまう。
もちろん、かけられたすべてのそれが無責任に放たれた言葉ではない。ほとんどは、本当にわたしを思って言ってくれた言葉だったし、そのおかげで乗り越えられたことも何度もある。
でも、無責任なその言葉は、たった数回でも苦しい。わかったようなこと言わないでよ、という感情は怒りや動力になんて変わらない。ただ哀しみに変わり、毎朝の目覚まし時計のように耳元で不快に鳴り響く。
でもどこかで気づいたのは、みんな生きるのに必死で、たとえば働くのに必死で、自分の欲望に必死だ。だから、それによって生まれる不機嫌の飛び火を回避する方法なんてない。誰かと関わって生きていく上で、そんな方法はないと思うのだ。
だから今のわたしの大人の定義は「自分で自分の機嫌をとれること」。自分へのルールも込めて、そんな定義が生まれていた。
冷たいねと言われてもそれを“さっぱりしていてかっこいい”に変えたし、魅力がないと言われても“魅力がわからないほどに幼いのね”に変えた。不快になりそうな言葉は全部定義を変えて自分の中に蓄積すると、自分が不機嫌になることはなかった。だから受け取る言葉に対する余裕も出て、つらくなることも減った。
「つらいけど頑張る」は正解であり、間違いだ。ポジティブな気持ちのときのそれは自分を強くしてくれるけど、そのときの感情によって言葉の真意は変化する。
だから、飛び交う言葉のすべての定義を変えていい。自分の中だけでこっそり変えていい。自分で自分の機嫌をとれるような言葉にこっそり変える日々を積み重ねたらきっと、今夜は乗り越えられるから。
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