あなたにも、忘れられないひとがいるんでしょう
「あの日から、進んだつもりでいた。でも、なにも変わっていなかった」
のこりのカクテルを飲み干して、彼女は続けた。
どれだけ私が幸せになっても、今私が幸せだとしても、彼のことを完全に忘れる日は来ないかもしれない。むしろ来てほしくない気もする。あんなにひどいことをされて、もう嫌いになってもいいはずなのに。
一年も会わないうちに、彼女は私の知らない服をきて、知らない顔を持っていた。綺麗に施されたメイクが新しい彼女を際立たせていて、不思議な気持ちになった。
そういえば今日、イヤホンを忘れて家を出てしまった。音楽を聞きながらどこかへ向うのが日常だったから、どうしても落ち着かない。頭の中で音楽を流そうとしても、流せる曲は限られている。携帯を開けば流せる音楽は選べる。そしてそこに何の違和感もない。でも、ふと脳内で流せる音楽は選べない。むしろ、気分によって脳内に流れてしまう音楽は選べなかった。
電車の中で泣いている赤ちゃんを見て、かなしくなった。私の脳内で流れてしまったのは、いつの日かのかなしい時に「聞きな」と当時の好きなひとに教えてもらった、せつない歌だった。
意見が合わなくても喧嘩はしなかった。でも、“わかる” と “おもう” は全然違う。そんなことを口にすると、
「ぼくたちは分かり合えるけど、思うことは合わないね」
とさみしく微笑まれてしまった。かなしくなると、そんな日のことが蘇る。そして思い出してしまう曲は、彼の教えてくれたものだった。
───“わかる” と “おもう” は全然違うよね
そんな回想を経て、あの日の言葉を口にすると彼女は新しいカクテルを飲む手をとめて言った。
彼のことを知れば、彼がなにを考えているのかを分かることができたら、うまくいくと思ってた。でも違った、どれだけ彼を知っても、分かり合っても、一番深い「思う」の主張がズレた時点で、お互いへの遠慮が生まれてしまう。違和感なく一緒にいられても、そのズレはいつか崩れてしまう。かなしいね。
未練じゃない、後悔でもない。でも、諦められなかったから愛と呼ぶことにしたこの思いは、たまに私たちをせつない気持ちにさせる。そしてこの愛がどこかのパラレルワールドで叶いますように、なんて思ってしまうのだ。
でも、
もう超えることはないと思っていた気持ちも、いつしか超えてしまっていたね。
私たちは顔を見合わせて笑った。
そういえば、初めて話した日の会話を覚えている。
「あなたにも、忘れられないひとがいるんでしょう」
読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。