京都で暮らすという浪費
「いつも、なんだって早いんだから」といって、彼は去った。そんなことないと言おうとして辞めてしまったのは、自分でも気付いていたからかもしれない。もう何年も前のこと、全然変わってないな、自分。
引越しを終えて、役所に手続きをしに行った。朝一番に行って、転入するだけなのに何十分も待った。マイナンバーカードがあると、転入の手続きに慣れていない管轄は時間がかかる〜みたいな感じだったらしい。そのエピソードを笑い話にしていたら、「きみは適応が早すぎるから」と笑われた。そうなのかなあ、って笑えなかった。
人生は長いからとりあえず頑張れ、というのは間違いではない。一旦、に助けられたことは何度だってある。けれど、それを超える可能性があるならば、そしてもう目移りしてしまっているならば、わたしはそれを選んで走りたい。
まだまだ人生折り返してもいないだろう自分でも、分かっていることはある。心地いいことを選び続けることは簡単だけど、“なんとなく心地の悪いこと”を明確にして、それをどうするかの選択をし続けることはそう簡単じゃない。
ながいながい持久走、遠くへ、だけじゃない。自分がどれだけ足を動かし続けたいと思えるかどうかだ。
京都の道は、絶対にわたしを惑わさない。まっすぐに立ち向かってくる。絶対に逃げられない、といつも思う。違和感を無視するな、疑え、戦え、と問うてくる。あまりにも広い1号線、滑走路として使われなかったこの世界線で無駄に散歩したり、走ったり、笑ったりしながら。
でも同時に、それに時間をかけてもいいことを教えてくれる。受け入れ続けられた文化の街は、あまりにも厳しく、優しい。意志があるならやりなさい、と。
京都という街の受容。その先の余白で、わたしはいろんなものを浪費しているのだと思う。無駄に音楽を聞いて、意味もなく散歩して、呆れるほど趣味に没頭する。突然狂ったように仕事をして。時間も精神も体力も無駄にしていると思うほど、振り幅のすごい暮らし。それは、想像もしなかった世界への入り口で、物語が待っていて、そこにしかない完全のようななにかがある…というか、そこでしか続かない文化があるんだろうと思ったりする。
幼いあなたを救ってくれた、ローカル電車が舞台の本の中……のような世界に、わたしはいる。今日も淡いベロアが、人々を受け入れている。
少し地元に似た、でももっと広い城下町のような都には。想像を超える都会と田舎が共存していて、時に嬉しく、寂しいけれど。あまりにも心地よく、同じくらい違和感がある。天秤は常に揺れ続けていて、だから振り子のように進んでいける。どれだけ振れてもぶつからない、余白があれば。
目の前の景色を独り占めできる。そしてそれを存分に身体中で味わっていて、うつくしいと感じていることに嘘はない。そう、これがよかった。まだしばらくは、余白を浪費させていただきます。