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君はいつも壁がある、だから僕は好きなんだ。
飲み終わったアイスコーヒーの氷をゴロゴロとストローで転がす。それは時を止める魔法である。
「久しぶり」
彼は笑顔でいつもこう言った。先週も会ったじゃん、とツッコむこともあったけど、会う頻度は大半がそれに等しかった。だから会うと話すことはたくさんあって、その度に必ずお互いの近況報告をした。こなす、と言ったほうが近いかもしれない。彼とする近況報告はいつもどこか冷たくて、なんとなくの距離があった。近況報告というタスクが私たちの会う理由だったのかもしれない。そしてそれが終わると彼はいつも私に笑いかけるのだ。好きだよ、と。
本心の見て取れない言葉が放たれる頃にはコーヒーも、時間が止まったような喫茶店でのタイムリミットも残りわずかである。そしてさっきの台詞は彼なりの私に対するエールである。大丈夫だ、ひとりじゃない、という励ましの言葉。彼には、恋人がいた。
あの台詞を信じていたら、私たちの関係には名前がついていたのだろうか。私は彼のその台詞を本気に捉えることはなかったけれど、嘘だと思っていたわけでもない。だからいつも受け入れたふりをして、そっと流すふりもした。勿論彼もそれ以上は何も言わず、二人でコーヒーを飲み干して、そっと喫茶店の魔法を解いた。
今思えばその頃の私たちはボロボロだった。つかみどころのない不安にのまれ、平気なふりをして毎日を生きていた。表面の生活はお互いうまくいっていたけれど、その分少しずつ精神がすり減らされて、それに気付かないふりをするために喫茶店とコーヒーの魔法で時を止めるという現実逃避をしていたのだと思う。
人生を一枚の絵に例えたとしたら、ペン書きの時期に彼と出会ってしまった。ついこの間まで下書きしては消しゴムで消して、をくり返していたのに。私も彼も、これからペン書きした絵に少しずつ色を塗って、書き足して生きていく。その中で多分、「言いたいことを言えなかった人」には色をつけることができずに、ずっと頭の中だけでカラフルなまま、特別で居続けるんだと思う。目の前に広がった人生のキャンバスで、彼だけは未完成のままである。あの時思っていた気持ちを素直に言えばよかったのかもしれない。でもそれよりずっと愛おしくて、幸せになってほしくて、どうか私に染まらず、羽ばたき輝いていてほしかった。だから勝手に私の人生に住まわせるわけにはいかなかったのだ。それが彼という存在をペン書きできなかった綺麗な言い訳である。
もうしばらく会っていないけれど、最後に彼はこう言った。
「僕は、いつも君が羨ましかったんだ」
どういうこと、と聞く間もなく彼は続けた。
君はいつも壁がある。これは悪口じゃない。相手とは違うという受容の一線を引いている、そんな壁なんだ。だから君はなんでも受け入れられるんだと思う。壁で君は君という存在を確立しているんだ。その壁が、相手からの尊敬も生んでいる。僕が君をすごいと思っているみたいに。それに君は、その壁を自ら壊す力も持っている。遠く感じていた人が、すぐ近くに感じることほど嬉しいことってないのと同じ。だから僕は、君が好きなんだ。
その言葉を真実にしたくて、今の私はここにいる。私は彼になってみたかった。彼の語る私はいつも、好きな私だったから。
だから迷うといつも聞きたくなってしまうのだ。今、彼が紡ぐ言葉であらわされる私は一体どんな風なのか、と。
「ご注文は?」
外はもう寒いけどいつもの癖でつい、という言い訳をして、彼という夢に浸るためにそっと魔法をかけるのだ。
アイスコーヒー、ひとつください。
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