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シリーズ 昭和百景 「イワナイイワナイ病と日本最古の鉱山跡」

(最後にもう一葉、写真を掲載しております。文末の写真から、人間の営為の意味を“感じて”いただければと願っております。拙い拙稿ゆえに苦痛でございましても、ぜひさらっと斜め読みいただきまして、最後にご笑覧を賜りますようお願い申し上げます)

 泊まっている宿の女主人が、ある晩、こんなことを教えた。

「あそこには、〝イワナイイワナイ病〟というのがありましてね。病気があるだろう?って訊くと、みんなナイナイって、いわないんですね。それで、イワナイイワナイ病」

 イワナイイワナイとは、カドミウム汚染によるイタイイタイ病にかけた物言いである。

 長崎県対馬の樫根は戦後の一時期、この鉱毒によるイタイイタイ病が発生したとして、対馬だけでなく、本土からの耳目を集めたことがあった。

 戦後、60年代は、労働者の権利意識の高まりとともに労働環境やその周辺環境への影響に目が向き始める。同時に、高度成長を背景にした、国土挙げての増産態勢の歪が顕在化し始めた頃でもあった。

 そうした時期、ヤマのあった場所を中心に、全国各地で鉱害問題が噴出したのである。

 宿の主人は、そのイワナイイワナイ病とともに、島民には忘れられない一人の著名な人物がいたという。ジャーナリズムの世界に決して通暁しているとはいえない、宿の女主人でさえ、島のイタイイタイ病を取材するために訪れたその人物の名前を忘れていないのが驚きだった。

 そのときに耳にした「鎌田慧」という名前が、樫根の集落で出会ったお百姓の、口はぼったい、あえて視線を逸らせようとするかのような微妙な警戒感を納得させた。

「イワナイイワナイ」とは、まさにその対馬の鉱害を全国区にした樫根を指したものだったのである。鎌田は社会派のルポライターとして、労働問題に深く根ざした視点で活躍してきた人物である。その鎌田に、対馬の鉱害を取り上げた『ドキュメント 隠された公害 イタイイタイ病を追って』という著書があることを知ったのは、対馬を訪れた後だった。

 文庫版の一冊を手にとり、その表紙に太字で著された言葉を読んだだけでも、どうやら鎌田の取材が、対馬や、とりわけ樫根の人間にとっては取材の気配を恐れるトラウマになっているであろうことは予想できた。

「対馬樫根部落の住民は一致団結して

病気の存在を否定し、

マスコミの取材を拒否しつづけた。

いったい対馬に公害はあるのかないのか、

もしあるとすればなぜ隠そうとするのか。

 一企業が住民に行ったおそるべき支配構造の実態を捉えた迫真のドキュメント。」

 鎌田が対馬を訪れたのは、一九六九年八月のことだったという。

 それからもう四十年以上が経っている。それにも関わらず対馬の者は、イタイイタイ病そのものを恐れる言葉ではなく、鎌田という一人の取材者の存在をいまだ強く意識していた。そのことのほうに私は驚かされたのだ。

 鎌田慧という一人の人物の滞在によって、どれほどヤマを知る人々が恐怖に怯えたのかは、私自身が対馬のヤマで働いた人物を訪ねたとき、思い知らされることになった。

 対馬のヤマで働いていたある有力者の紹介で、かつて東邦亜鉛で働き、坑内に降りていたある人物を福岡の住まいに尋ねたときであった。

 多忙を理由に取材には応じられないとひたすらに哀願めいた言葉を繰り返したその人物は、私が立ち去った直後、紹介者として私が名前を挙げた人物に電話をかけ、懸念を示したのだった。

 直後、私の電話が鳴った。

「圭肺とか鉱害のことを心配したようだ。なにかそんなことを訊きましたか?」という。

 思い当たるところはあった。

 ヤマで働いていたひとは、炭鉱も金属鉱山でも、やはり職業柄、肺を悪くされることも多いようで、ご健在の方も年々少なくなっているので…と、確か玄関先でそう挨拶したのだった。

 鎌田の取材がいまだに対馬の人々にとっては苦い思い出となっていることは知っていたので、私は決して公害の取材をしているわけではなく、ヤマの生活や当時の風景について、さらにはヤマで働いていた人々の閉山後の様子や、今から振り返った思い出などを伺いたいと、再三そう強調していた。だがどうやら、訪ねた相手にとっては、ヤマの職業病や公害などの言葉だけが記憶の琴線に触れたようだった。

 その懸念が、「大丈夫なのか?」となったのだろう。

 対馬・樫根の集落の人々が「イワナイイワナイ」のも、無理もなかった。

 東邦亜鉛が閉山したのは73年のことである。

 樫根や近くの佐須の集落は、この東邦亜鉛があることで、何よりもヤマがあることで生活と経済のすべてが成り立っていた。

 ヤマを掘ることの結果としてカドミウム汚染があろうとも、それはすでに古くから諒解されていた話でもあったのだ。

 それを知っているからこそ、ひとびとは集落の奥にある谷をこう呼んだのだ。

 悪水谷―。

「あくすいだになんて言われていたぐらいだから、やっぱり鉱山の水は駄目なんだということは古くから分かっていたのではないでしょうか」(対馬歴史民俗資料館館長)

 錫や鉛の鉱脈として含有量に優れていた鉱脈であればこそ、その山肌に浸潤して里で湧く川は、当然、魚の棲めないものとなる。それでもなお、ヤマがあるからこそのムラの経済であり、ヤマとしての集落が維持できるのであった。

 元来、対馬では、そうした鉱脈を抜けた水が湧くことも影響していたのかもしれない、米作に関しては決して豊饒の地ではなかった。だからこそ、鉱物資源の採掘に目が向き、そしてもっとも早くにそのヤマに鑿が入ったのである。

 そして樫根こそは、ムラがヤマへと変貌した、あるいはムラの外にヤマが出来た近世の日本のヤマ史よりもはるかに古い、まさに日本最古のヤマ社会そのものだったのだ。

 鎌田が記したこんな光景が甦った。

「小島さんの家は勾配のかなり上にある旧家だった。道路からすこしはいり込んだところに間口のひろい玄関があった。わたしは誰とも会うことなく、ようやくそこまでたどり着き、思いきって声をかけた。ゴロリと戸がわずかにひらいて腰をかがめた老女が覗きみた。固いまなざしだった。

『おじいさんはいらっしゃいますか』

 わたしはできるだけなれなれしい調子でたずねた。

『えっ』と問い返した。それはきこえなかったのではない。かの女は戸惑いながら、もう一度じいっとわたしをみつめ、素早く風体をさぐった。

『おじいさんはいらっしゃいますか』

 わたしはおなじ調子で、おなじセリフを繰り返した。

『いま、いましぇん』。それは、ピシャリと突っぱねる、という感じだった。と、奥から、『おお、いるよ』と気さくな声がかかった。それに力をえて敷居をまたいだ。広い土間だった。障子がひらいて、たかい上り框の上に小柄な老人が立った。七十二歳ときいてきたにしては矍鑠としている。

 暗い蛍光灯を背に受けて表情はよく読みとれなかった。厳原で知り合った知人の名前をもちだして、対馬の歴史を調べにきているものですが、昔の話を教えてください、と頼んだ。かれはちょっと間をおいてから、

『まあ、上がってくだしゃい』

 といって身を引いた。礼儀正しい老人である。隣りの部屋からさっきの老婆に、『いやぁ、本を書くひとだ』と軽くいなしている声がきこえた。新聞記者でない、と強調してるのであろうか。

 わたしは上げてもらった部屋をみまわしていた。二十畳以上もある広い居間で、家具は置かず、鴨居の上にはなにやら額縁入りの賞状が並んでいた。テーブル代わりの掘炬燵に足をいれて待っていると、さっきの老女がでてきてにじりよった。

『あなた』と相変わらず固い表情で呼びかけ、『この三回ばかりきたとでしょう』

 図星だった。この日まで三回つづけてこの部落へやってきていた。

『ええ、区長さんのところへきたんです。きのうお寺でお会いしてました』

 精一杯、平静を装って答えた。しかしそれは弁解がましかった。かの女はなにかいいかけて、そのまま黙って引きさがった。奥で物を刻む庖丁の音がきこえだした。小島さんにいわれて、持参した酒の摘みでも仕度しているのだろうか。わたしは三回という数字のたしかさに驚かされた。かの女はどうしてこれほどはやく、しかも正確にわたしについての情報を知りえたのだろうか。誰からきくのだろうか。…」(『隠された公害』)

 情報伝達の速さは、ヤマの一体感の表れでもあり、同時にそれは、利益もリスクをも共有する運命共同体であることを何よりも如実に物語っていた。

 東邦亜鉛による閉山後、樫根の集落は長い復旧事業を経て、土地には豊かな稲が実るようになっている。不必要にかつてのヤマがもたらした負の局面を強調されては、生活にも影響してくるのは明白だった。
 

 川床と同じ高さ、地面よりも一段低い場所にある坑口に下りようと、錆付いた鉄の階段を下り、足元のしっかりした場所を確かめながら、わずか一メートルばかり進み、そこでじっと闇の奥を凝視した。

 日暮しの鳴声さえ止み、あたりを静寂が支配したその瞬間、不意に穴の奥からズーという音が向かってきたかと思うと、足の真裏を何かが突き上げてきた。

 ヤマに生きた樫根の人間が辺りではもっとも古い坑口だと教えた、その闇の奥が地底へと降りていく坑夫たちの姿に自分を重ねようと、目を閉じていたからだろう、その音と足元の不意な拍動に驚き、思わず穴の外へと駆け出た。

 するとそこには、真っ黒な管が何本か奥から這い、川に沿って山の上へと向かうものと、ふもとへと向かうものとで分かれていた。

 なにか空気が抜けているような、蒸気があるような、シューという音のようにも聞こえる。それに続いて、ボコボコッと管のなかを液体が流れているのが分かった。

 ポンプが定期的に水を汲みだしているようだった。

 樫根の地下、坑道の深くに溜まり、上へと上がってくる鉱脈を通った水を、川に流れ込まないように漏れなく汲み取り、そして鉱害防止のために浄水管理しているのだ。

 それはまるで、このヤマに付けられた延命装置のようにも思えた。

 すでに掘られることの止まった仮死状態のヤマに付けられた、栄養を送る管が、定期的に音を立てている…。

 坑口の奥には、そんな太い管が四本も走り、銘々に脈打っていた(冒頭写真)。

 しかし、それはこちら側の意思で止めることを許された延命措置ではなく、これからも未来永劫、そこに人が住み続ける限り、止めることの許されない、運命的な拍動である。ヤマは閉山してなお、死ぬことさえ許されないのだ。

 今、坑口は厚いコンクリートで厳重に封鎖され、地下の坑道に貯まった毒を含んだ水を一滴たりとも集落に漏れ出させぬよう、汲みあげられ、貯水池で処理されている。

 閉山からちょうど半世紀を迎えた今、東邦亜鉛は現在も対馬に数名を常駐させている。すべては、この日本最古の坑道の汚染水を除染管理するためである。対州鉱業所は現在、所長を含めて数人が残るだけだ。しかし、地下に坑道が残る限り、未来永劫、そこに人が残り続けなければならない。

 かつて対馬藩の殿様が馬で入ったという日本最古の坑道を奥へと進んだとき、五十メートルほど行ったところで、坑道は一面、コンクリートで覆われ、塞がれていた。そのちょうど真ん中あたりには、溜まった水を抜くための黒いパイプが数本、コンクリート壁に突き刺さっている。

 日本最古の坑道を厚く覆ったコンクリートの蓋を前に、脳裏には、あろうことか、遠く、チェルノブイリ原発の石棺の姿が浮かんでいた。それは果てしなく続く、人間の痕跡への始末の景色だった。


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