シリーズ 昭和百景 「キッシンジャー対日秘録 ニクソンショックを埋める“空白の3日間”を読み解く 朝日新聞・冨森メモ」
写真はイェール大学が管理するキッシンジャー氏の個人コレクションのうち開示されたものの一枚。
2023年11月29日。ヘンリー・キッシンジャーが逝った。
これまでどうしても開かなかった扉がある。それは日米の戦後史における「意思決定プロセスの核心」ともいうべき、キッシンジャーの対日メモである。キッシンジャーの現役時代のメモなどは、米国内でもいくつかの場所に分割して保管されている。そのうち、イェール大学に研究寄託されたもののうち、多くは「死後5年間は開示不可」とされている。寄託されているものも、基本はキッシンジャー側の開示承諾を得なければならない。
戦後史のあらゆる局面で重要な役割を果たしてきた稀代の戦略家は、ニクソンショックを裏で支えたことでも知られているが、この米中関係の形成過程には、ある無名の日本人が関与していた。
笠井重治なる人物である。
この笠井の自宅から発見された「日記」を紐解く“中間報告的なもの”は、一部が拙著『天皇を守った男 笠井重治』(東洋経済新報社)にまとめたことがあるものの、なお、その全貌解明に向け、私は遅々とした作業を進めている。
笠井は晩年までキッシンジャーとの交流を維持し、キッシンジャーの対日アプローチにおける「バックチャネル(密使)」として、背後機能を果たしていたと見られている。
キッシンジャーの対日メモのさらなる精査着手は、ここ(同氏の死去)から5年後をなお待たなければならないが、その一旦、あるいはその相互作用ともいうべき展開は、かつて朝日新聞の総理官邸キャップをしていた冨森叡児によって断片的ながら把捉されたことがある。
謎が謎を呼ぶ、談話的な話のみですが、雰囲気だけでもお楽しみいただければ幸いです。
もし、笠井による密使外交にご関心を持たれた方は拙著『天皇を守った男 笠井重治』を紐解いていただければ光栄に存じます。
空白の三日間――。
ホワイトハウスに米国大統領を訪ねるべく、従前に根回しをしてからの渡米であった。その三日間に何があったのか。
二〇一七年暮れ、元政治記者の書斎から、その謎を解くメモが見つかった。
翌二〇一八年一月十一日、私は閑静な屋敷町に、冨森叡児を訪ねた。生前の笠井をよく知る、元朝日新聞記者である。冨森詣でを始めてから五年が経過していた。
現役時代の冨森がメモした笠井の証言が、「空白の三日間」の謎を埋める。その「三日間」は、笠井と卜兆鳳の密使外交にとって重大な局面を孕んだ三日間だった。
「それどころじゃなかったんだよ」
冨森は空白の日記を見つめながら、懐かし気な笑みを見せた。
「なるほどなあ、あのときの話はこの三日間のことだったんだな」
一九二八年生まれの冨森叡児(二〇一八年三月十五日死去)は、最後に会った時には齢八十九を迎えていたが、記憶は明確で、生前の笠井を雄弁に語ってくれた。
冨森の主な経歴は次のとおりである。
朝日新聞で東京本社政治部長、編集局長を歴任し、常務取締役を最後に退社。一九九八年まで東海大学文学部教授を務めた。学生時代にはニューヨークのコロンビア大学大学院でも学び、ワシントン特派員時代には、読売新聞の渡辺恒雄と親しく交流していた。
その冨森は政治部官邸キャップ時代に、笠井を知った。官邸の主は岸信介。当時、笠井はフリーパスで頻繁に官邸を出入りしていた。
元衆議院議員ではあるものの、無位無冠の笠井が官邸を頻繁に出入りするのは不思議だった。興味を覚え、折に触れ会話を交わすようになる。政局や永田町界隈の動向について、笠井の言説は的を射ていることが多かった。とりわけ、笠井がアメリカの政界に通じていることは冨森にもわかった。笠井にとっても、現場記者から得られる情報は貴重だった。用はなくても雑談を交わす。そんな関係が徐々に築かれていった。
そんなある日のことだった。冨森は笠井から川井の話を聞いた。当時を振り返って、冨森は言う。
「笠井氏は日中ではなく、米中の関係正常化の裏で密使をつとめた、と漏らしたことがあったんです」
オフレコだ。絶対にメモをとってはいけない――。笠井は何度も念を押した。その時の話を、笠井と別れた後、冨森は抜群の記憶力を頼りにメモに書き起こした。一九七〇年代の初めだった。
二〇一七年の暮れ、冨森が自宅で見つけ出したのは、その時のメモだった。メモは朝日新聞社用の二百字詰め原稿用紙で八枚に上る。
メモに記された内容は次の通りだった。以下は冨森が筆記した「原文ママ」である。
笠井重治氏より聴取せる話
一九六九年十一月十一日、同氏の秘書である朴兆鳳(本名河井道夫?)から、米政権に届けて欲しいとの書類をもらった。
最初、笠井氏も半信半疑であったが、周恩来夫妻の写真もあり、米政権に届けることにした。
朴は目下香港にある華商で、中共系。
戦争中は汪兆銘政権の官房長官?のようなポストだった。
そのころ、共産党が汪政権に近づき、周恩来が汪と会いたいといった。
汪が会う気がなかったのを朴が会うべきだと主張し、汪―周会談が三度ばかり実現した。
周恩来はそのとき以来、卜に非常に感謝している。
この書類には、米国が台湾問題を処理してくれるならば、米中関係正常化に應ずるという趣旨のものだった。
このときは、朴を伴って、ホワイトハウスに書類を届けた。
グラントという男に渡した。
米政府にいる中国人もあらわれて、朴と中国語で話していた。
その後、米側からは音沙汰はなしだった。
グラントが手柄をひとり占めしたのではないか。
それから間もなく、ワルシャワ会談が再開された。
米国がこの話をワルシャワでもらしたら、大使は驚いて北京に飛んで帰って相談したということだ。
七一年九月、再び、米政府に届けてほしいという書類をもって朴があらわれた。
そこで、日本経済委のはじまるちょっと前に渡米した。
ニクソンには米側の筋を通じて会った。
キッシンジャーとも会う約束になっていたが、ホワイトハウス・アネックスの彼の部屋にいってみると、彼は議会の秘密会に呼び出されホールドリッジが代りに会った。
ホールドリッジにはキッシンジャーの悪口をうんといっておいた。
この書類は、台湾問題処理の条件を示したもので、台湾は中国の省として蒋経国を省長として、三年間は中国の税金はかけないというもの。
米国が台湾を説得してこの線で解決して欲しいというものだ。
この書類は福田にみせておいた。
キッシンジャーが十月末にいったのは、この返事と自分は解釈している。
ホールドリッジも同行しておる。
帰途自分はカナダにゆき、中国の大使と接触した(その内容は話さぬ)
周恩来からの感謝状をもらっている。
これは一枚の白紙を朴がもってきたもので、それに薬をかけると手紙の文字が浮かびあがった。
周恩来の署名があり、間違いない。
自分が米政権に橋渡しをしたことを感謝したものだ。
これで、判るように、米国は台湾問題の処理にいずれ動くことは確実。
その場合、日本としても、中国との間に、ちゃんとしたパイプが必要だ。
自分は国のため、最後の御奉公をしたい。
年内に、中国にゆくつもり。
周に会って、福田と会ってやってくれと頼むつもり。
アジアの平和のために日中の握手が絶対に必要と考える。
福田は自分のやっていること、やろうとしていることは知っていようが、私が福田に会って、キッシンジャーにあってくれと頼まれたわけではない。
次ぎの総裁としては、福田が一番。
その次は中曽根だ。
中曽根にはあせらず、まず、福田に協力し、次の次をねらえといってある。
中曽根は、そのときになったら考えましょうといっていた。
周恩来は、自分が戦争中、軍部に抵抗したことを知っていて、評価してくれている。
福田に中国国連参加の前後にあった。一九七二年十月。
そのとき、朴が中国側の意向として、台湾は中華人民共和国の領土との文書に署名したものをもってきて欲しいとの話があった。
これは絶対に外部に出さないものだということだった。
しかし、福田は断った。
中国側の話として、笠井翁は高齢(七十六才)でもあるし、北京の冬は寒いので、桜の咲く頃きてほしいということであった。
月末にゆきたい。
メモには、中国側から打診されている対米、対日への要望項目も詳細に記されていた。小型の録音機器などまだない時代である。記者らは記憶を頼りに勧進帳で原稿に起こすことに慣れていたとはいえ、その仔細に渡る冨森の記憶力は驚くべきものだ。
対日五原則
国連参加に賛成、安保理に入れる
日台間系をrelinquish(撤回)する
一つの台湾、一つの中国をやめる
dual chinaをやめる
on the spotに日中平和条約を結ぶ
これが実現すれば日中戦争の結果残っている問題の処理をamicablyなかたちで解決する用意がある
日中不可侵の原則
最恵国待遇を与える
対米五原則
中国を国連に入れる
安保理の議席をあたえる
米中防衛条約廃棄
台湾からの米軍の撤退
?
対台五原則
台湾は中国のひとつのプロヴィンスである
台湾にautonomyをあたえる
蒋介石はfull termをつとめたら蒋経国を省長とし、五原則が果たされれば、三年間税金を免除する
最初のメモの「朴」は「卜」の誤記で、日本名の「河井道夫?」が「川井龍夫」であることは間違いない。誤記は、冨森が記憶だけを頼りにメモを起こしたことの証左ともいえよう。
当時の冨森に、笠井の話の裏付けをとる術はなかった。日中の国交正常化交渉でさえ、水面下でなにが進行しているのか判然としない中で、その日中を飛び越え、笠井は米中交渉の「密使」だったと言ったのだ。冨森がまとめたメモは、断片さえ報じられることなく、そのまま長く、冨森の書斎に眠ることになった。
二〇一三年、私が自宅を訪ねて笠井日記を渡すと、冨森は日記の記述と、笠井から聞いた話の符合に気づいた。冨森も、笠井の悪筆に困惑したようだが、部分的であれ判読できる箇所があったようだった。
冨森の記憶では、笠井が冨森にこの話をしたのは一九七一年暮れのことだったという。九月、ホワイトハウスから戻ってきたあと、笠井は十月一日付の周恩来からのあぶり出しの手紙を受けとる。
その直後から、笠井は周恩来に会うために中国へ向かう準備を慌ただしく始める。笠井は冨森に、「年内には中国に行く」旨を話している。
おそらく、笠井は興奮の日々を送っていたのではあるまいか。「当初は半信半疑」だった周恩来からの密書をホワイトハウスに二度に亘って届け、それを機に、米中関係が動きだした。そして、周恩来から感謝状が届き、北京に招待されることになったのである。
「年内にも中国に」と、確信して冨森に話した笠井だったが、七一年の暮れ、十二月二十二日、笠井は周恩来からの密書を再び受けとった。
午後三時、帝国ホテルの六一六号室で笠井は、卜兆鳳とともに現れた周恩来の使者と面会する。そこで、周恩来から卜兆鳳に宛てた十二月五日付の手紙と、笠井宛ての十二月十五日付の手紙を受けとったのだ。
そこには「笠井先生は八十六才なるを以て北京の寒冷は現時はやめて暖気来る候に訪せられたい」という趣旨が書かれていた。
笠井の年内訪中は延期となったのである。
冨森には笠井は生真面目な人物と映った。
「とにかく真面目な人でね、そういう意味で面白味はないともいえたかもしれない。ただ、笠井さんは戦後、選挙に落ちてからはずっと民間人でしょう。日記を見ると、やっぱりずっと社交に明け暮れていることがわかる。心のどこかではずっと、社交だけの生活で余生を送っていることに何か、物足りないものがあったんでしょう。そこに卜兆鳳が現れたわけだ。最後の御奉公として、頑張ったんだろうね」
「ただね」と冨森は付け加えた。
「やっぱり、卜兆鳳は笠井さんを利用しておったんじゃないかな。笠井さんは利用されたんじゃないかな。もちろん、果たした内容は本当だろうけど」
卜兆鳳はのちに、気になることを言い残していた。
「一連の仕事が終わると、大陸からはかなりの報酬が大陸のグアム島資金から卜の口座に支払われ、米国の大統領からも相当の報奨金が卜のグアム島口座に振り込まれる予定だった」
卜兆鳳が口にしたのは三十万ドル、日本円でおよそ三千万円に上る額だったという。国交のない国との、民間人を利用した秘密交渉では、あり得ない話でまったくない。
一九七一年前後、卜兆鳳は資金難に直面していたようだ。文京区本郷界隈で小さな貿易商社を経営していたようだが、小さな額を笠井から借りることもあった。笠井はそういった些細なことまで日記に書き残していた。一九七一年十二月、師走にも…。
笠井は米中国交回復に、密使として重要な役割を果たした。当時、裏付けは取れなかったが、冨森はその事実を笠井本人から聞いていた。笠井の日記は、冨森にその記憶を鮮明に蘇らせた。
長い記者生活の後、冨森は官邸キャップ時代の記事にできなかった話を、一度だけ、活字にしている。日本記者クラブの会報に寄せたコラム「書いた話 書かなかった話」である。朝日新聞退社後の一九九五年のことだ。
手元に、茶色に変色しかかった原稿用紙のメモがある。もう二十年以上も前の一九七一年末ごろ、元民主党代議士・笠井重治氏から聴いた話を書き残しておいたものである。
あまりにスケールが大きいというか、キツネにつままれたような話だ友人、記事にしようもなく、打っちゃっておいた。かといって老政治家の〝白昼夢〟とかたづけるにはちょっと惜しい気がして、引き出しの片隅に保存されていた。
いまはもう、笠井氏といっても知る人はほとんどいない。甲府中学を卒業してすぐ渡米、ハイスクールを経て、シカゴ大学、ハーバード大学院で学位をとった。東京市会議員から、三六年衆議院に初当選した、やや異色の戦前派代議士である。選挙に弱かったようで二回当選後、四二年の翼賛選挙に落選。戦後初の選挙で返り咲いて民主党に所属したものの、以後何度挑戦してもすべて落選という悲運の人である。
英語の達人で、とくに英語での演説は「外人もうなる」ほどのものだったと、戦前の新聞は伝えている。三七年、その英語演説力を買われて、当時の政府から欧米諸国に「国民使節」として特派され、日本の立場を説明して回ったりしている。八五年、九十八歳の長寿を全うして亡くなった。
岸元首相とは親しく、落選後もその周辺に出没していたので知り合った。その笠井氏が米中関係正常化の問題で密使をつとめたという話をもらしたのである。
六九年の十一月ごろ、笠井氏がかねて懇意にしていた香港在住の華僑から、米政権中枢部に届けたい周恩来からの密書があるので、協力してほしいと頼まれた。この人物は、戦時中、日本の傀儡政権といわれた汪兆銘の下で「官房長官のようなポスト」にあり、「カワイ・ミチオ」という日本名を持っていたという。
汪と周恩来の間のパイプ役をつとめ、渋る汪を説得して、周との極秘会談をセットしたこともあった。戦後は香港に逃れたが、周恩来とのつながりは消えず、中共系の華僑として活躍していた人物という。
コラムの前段は、冨森のメモを元に、「事実」を紹介しているが、後半では、冨森の心証と解説が展開される。それは、笠井の密使外交を高く評価するものだった。
笠井氏がこの密書の内容をどこまで知らされていたかは明らかではないが、笠井氏によれば、第一の密書は、「米国が台湾問題を処理するならば、米中関係正常化に応ずる」という趣旨のものだった。第二の密書は、台湾問題処理の細かな条件を示したものだったという。
この話には奇妙に符節が合う部分がある。大統領就任の直後から、中国との関係改善を求め、シグナルを送り続けていたニクソンに対して、中国側がルーマニアとパキスタンを通じて、「ワルシャワでの米中大使級会談の再開に応じてもよい」との意向をもたらしたのは六九年の秋だった(『キッシンジャーの道』カルブ兄弟著)。これが初めての中国側の前向きの反応だった。
この密書が本物だとすると、中国側はルーマニア、パキスタンの間接ルートだけではなく、ほぼ同じ時期に密使を使って、中国側のより踏み込んだ意向を米政権中枢部に伝達したことになる。
第二の密書は、キッシンジャーの最初の訪中でいったん軌道に乗った米中関係正常化の交渉に暗雲のたれこめた時期と重なる。米中関係打開に反対だった林彪がクーデターを画策、中国政権は最大の危機にあった。周恩来は毛沢東の支持で巻き返しに成功。林彪がソ連に逃れようとして、墜落死したのが七一年の九月中旬である。
笠井氏たちが訪米したのは、第八回日米貿易経済合同会議(九月九、十の両日)の寸前だというから、まさに、ニクソン訪中をめぐる米中の交渉が完全に宙に浮いていた時期(前掲書)と重なる。想像をたくましくすれば、台湾問題処理の条件ばかりでなく、何かそのあたりの事情の説明も含まれていたのかもしれない。 (敬称略)