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新・田舎暮らしの教科書 “見えざる障壁” 「自治会の財産」問題に解決策を見出した「沖縄の知恵」

 沖縄県恩納村–。沖縄県内でも有数のリゾート地で、とりわけ海がきれいな東シナ海に面する。沖縄本島中央部の西側に広がる同村の面積は、兵庫県尼崎市とほぼ同じ。人口は1万1千人ほどだが、世帯数はコロナ禍を経ても増加傾向が堅調だ。人口では尼崎市の約45分の1にすぎない。年間を通じて観光客が訪れるため寂れた雰囲気からはほど遠いが、移住者の増加に伴い、長らく、訴訟一歩手前の「新しい問題」がくすぶり続けてきたことは知られていない。そして、そこに「ある知恵」を見出したことも…。

 1990年代初頭のバブル崩壊後、観光客の減少に悩まされた沖縄本島の中で、恩納村は日本本土、いわゆる内地から脚光を浴び、開発需要を維持した。リゾートマンションに替わる新しい需要、移住ブームの到来だった。

 沖縄県民にも人気の東シナ海の夕陽を望む場所に、移住者らはこぞって土地を買い求めた。団塊世代が一斉に退職期を迎えた近年では、周辺地域で移住者向けの大型マンション開発が相次ぐ。

 恩納村総務課によれば、「移住者数は年々増加基調にあり、年間200人、100世帯以上が増えている」。そんななか、99年まで恩納村長を務めていた比嘉茂政氏(後に沖縄県副知事、2010年死去)は、いずれ大きな問題になるとみて「移住者との経済問題」の調査に着手した。相談を受けたのは、米国統治下の琉球検察庁で公安部長検事を務めていた弁護士の高江洲歳満さんである。高江洲さんが当時の様子を明かす。

「比嘉さんから、これから移住者が増加すれば、この問題に行政としても対応せざるを得なくなる。訴訟が乱発する前に、今後の対応に備えたいということでした」

 当時の村長の懸念とは何だったのか–。移住者らが、集落の分配金を受け取る権利を主張し始めたのである。

 沖縄本島北部に位置する市町村のほとんどは、自治会が山間部に共有地(入会地)を保有している。そうした場所は集落が共同管理し、古くから薪を採ったり、炭をつくったりしてきた。

 戦後、アメリカ世(ユー)と呼ばれた時代を経て1972年に沖縄が日本に返還されたのち、北部の山間部は駐留米軍の演習地として続々と借り上げられていく。集落は「軍用地」を持つ“地主”となったのである。借地料は毎年国から村(そん)に振り込まれ、それを集落である字(あざ)ごとに分配するのが一般的だ。そこからさらに、集落の世帯ごとに配分する。

「1年間で1世帯、10万円は下らない。少ないところでも1万、2万ということはない。所得の少ない沖縄では、この分配金は小遣いというよりも所得としての意味合いが少なくなく、あてにしている人も多い」(数年前まで居住していた本土からの移住者)

 借地料そのものも、物価の上昇を反映して年々、上がっていく。そして、本土からの移住者増加に伴い、分配金の権利を主張する者が現れ始めたのだ。当然、集落では世帯数が増加すれば分配できる金額が減るため、それは避けたい。

 一方で、住民票を恩納村に移したれっきとした住民である移住者は、集落に参加し受け取る権利を主張したい。

 だが沖縄はもとより、「字(あざ)異なれば人異なる」と言われるほど、村内の純血意識が強い時代を経験してきた。
「同じウチナンチュ(沖縄出身者)であっても、出身地が異なれば転居して何十年経とうとも町内会には参加できない。敬老会やその孫の代の子供会にも参加できない。沖縄人であればそれを了解した上で共存してきた」(本部町から那覇市に移住して60年になる元県庁職員)


 沖縄では軍用地借地料の家計への貢献度は大きい。「軍用地主」と呼ばれる者のなかには、借地料だけで生活をしている住民も少なくない。それを、本土から来た移住者らが「分配せよ」と主張し始めるのだから、折り合いなどつきようがない。

 かつて村長だった比嘉氏は、その問題を住民から持ち込まれ、危機感を抱いたのだった。

「沖縄には墓の管理をはじめ、地割制と呼ばれる独特の土地所有形態など、古来から日本の民法には馴染まない慣習が現代まで根強く残っていて、今でもそちらが優越している土地が多いのです。そこに本土からの権利意識が持ち込まれるわけで、比嘉さんはいずれ行政問題になりかねないという意識を持ったんですね」(高江洲弁護士)

 比嘉氏から相談を受けた高江洲さんは当時、判例研究などに着手したが、結局、その「新しい問題」に適用しうるような判例は見つからなかった。

「自治会のなかには、入会規定として3年以上住んでいる者、などというものもありました。ただ、その条件を満たせば分配金の権利も発生するのか、という点が争点になる」(同)

 加えて、現在まで沖縄では「村内法」の尊重が続いている。法務省は日本本土の法制度の適用に当たって、1952年2月に「法務資料第三二〇号」として、「南東村内法」という調査資料を作成した。人文地理学者の飯塚浩二氏らの協力でまとめた同文書は、村(そん)ごとに異なる財産権や犯罪、婚姻に対する扱いを、那覇地裁の裁判運用に活かそうとしたものである。

 比嘉氏と高江洲氏は、沖縄各地で運用されてきた慣習法が、本土の権利意識が流入してきた場合にどう折り合うのかを懸念したのだった。

 結果的に、比嘉氏の対処は奏功した。

 例えば恩納村安富祖の集落では、集落の自治会から「入会権者会」を別組織として切り離し、59年以前から地区内に居住していた者のみが加入できる組織とした。

 区(自治会)の財産であったものを、自治会運営とは切り離すことで、移住者をわだかまりなく区民(自治会の会員)として受け入れることができ、古くからの居住者の権利も守ったのである。

「ひと頃、この借地料欲しさの移住者があって大変な問題だった」(安富祖の住人)状況も、自治会と共有財産を切り離したことによって落ち着き、納得しない移住者は出て行ったという。

 だが、地方移住の最後にして最大の問題はここに尽きる、とも言える。
 すなわち、移住歓迎、地域再興、地域に新しい活力を、と謳われる一方で、「見えない警戒心」「嫌悪感」「語られない心理的抵抗」のことごとくは、「財産と権利」の問題や課題、制度に収斂する。
 とりわけ、国土のほとんどが山林や山間部、あるいは海辺である日本においては、集落の財産といえば、それは海か山の「財産と権利」に属するのだ。
 
 戦後、軍用地としての借地料という新しい権利を得た沖縄の地域が生み出した自治会運営と「権利者会」との切り離しという「知恵」は、日本全国のこの最後の移住課題を考える上で、やはり学ぶべき、意義ある先例となりうる。

 会社経営にも通じる話である。日本型企業と欧米企業との最大の差は、「資本と経営」のあり方、とも言われる。
 日本型企業は、「資本と経営」が一致する傾向が強い。自治会運営、地域運営にも実は、この「権利と分配」をめぐって、こうした“資本と経営の一体運営”という構造性が含まれている。
 ここが組織参加の“参入障壁”にも転じる。すなわち、移住者の地域参加の困難と抵抗にも…。

 ここを行政課題としても取り組み、解決に導くことが、移住者受け入れの「最後の心理的・物理的ハードル」を解決する策にもなりうると、そう期待したいところでもある。
 地域振興とはすなわち、民俗と歴史を踏まえずしてはもとより成立しないものでもある。

 日本のどこの集落でもなお解決困難なそこに、一つの具体的な解決策をもたらした「沖縄の知恵」を知れば、「なんくるないさー(なんとかなるさ)」は決して「無策のまま推移を受け止める」意味ではなく、「あるべき方向を模索し、あるべき道に向かっていく積極的な心構え」こそが、実は正しい語意であることに、あらためて気付かされるのではないだろうか。

           本稿は『日経グローカル』誌での連載を加筆・改稿

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