教育奮戦記#1 温かくあれ。悩むな、考えろ
私はオンライン教育サークルを立ち上げ、仲間と学んでいる。
サークルの魅力は、自分と同じ熱量を持った仲間と学び合えることだ。
そこで、出会った学びの炎に私の心も燃やされ、熱くなれている。
それにしても今日、仲間から教えてもらったことがあまりにも自分に刺さりすぎた。
学級経営において、いや、教師の在り方として、自分を見つめ直すためにもつらつらと書き連ねていこうと思う。
教師6年目。
ある程度の見通しもついてきていて、「それなりに」学級経営することはできていると思う。それなりに。
でも、それなりの域を超えない状態に憤りを感じる面もある。
それは、この学年であればこのぐらいのことはできるだろうという見立てを立てているからこそ起きている。
今年の学年の子どもたちのこの感覚の違いようはなんなのだろうか。そんな感覚に苛まれることもある。
具体的に書こう。
例えば、授業中にスピードが遅い児童。
いる。よくいる。どの学級でも一人二人はいるだろう。
私の手立てと言えば、全体の進度を確認しつつ、遅れてしまっている児童には、現在地を確認させ、「もう少し急ぐのですよ」と伝える。
もしくは、事前に、「スピードを意識しよう」という話をしたり、ノートなどであれば、赤鉛筆で薄くなぞったりする。
あくまで方法論だ。方法論に良し悪しもない。
指導方法の引き出しとしては、十分にあり得る選択肢だろう。
しかし、その指導をするときの教師のマインドはどこにあるのか。
それについて、サークルで実践報告を聞いている中でどっぷりと考えた。
ZAKさんの報告だ。
その報告の中では、とある生徒が出てきた。
そう、先ほどのような、授業スピードについつい遅れてしまうような子。
衝動性があったり、こだわりがあったり。
きっとそんな子はどこのクラスにもいることだろう。
ZAKさんはその中で、何よりも先に、その生徒との関わり方について報告をした。
「温かくよりそう」
「叱って終わらない」
「苦しさを理解してあげたい」
「できないことに共感する」
「指導しなければならない部分がたくさんあるからこそ、それ以外の時間でたくさん関わる」
「成功体験を積ませる」
ガンと頭を打たれたような気がした。
どれも、教師ならばどこかで聞いたことがある話のはずだ。
しかし、これらを自分はどのくらい実践できているだろう。
どのくらいこのマインドで子どもたちに関われているだろう。
どのくらい本心でこうした在り方を大切にできているだろう。
言うは易く行うは難しとはよくいったものだ。
改めて、自分がどれだけ方法論に取り残されていたか考えさせられる。
方法論というのは、行うは易い。
そこに善悪はない。どう使うかが大事なのであって。
自分の言っていることがどれほど正しいことだったとしても相手がグローブを開いてキャッチできなければそれはキャッチボールとして不適切だ。
多くの子は、大体のところに投げてもキャッチできる。
しかし、きっちりグローブの中を正確にこちらが狙わないとキャッチできない子もいる。
そこに自分はあわせようとしていただろうか。
ZAKさんの報告の中では、「相手のグローブをこちらが狙い続けることで、いつの間にか、少し離れたところのボールもキャッチしてくれるようになる」というのがあった。
子どもは成長していく。
自信をつけ、信頼関係ができあがった先生と生徒という関係性ならば、少し詰めるような指導でも入りやすくなることは想像に難くない。
そうして、子どもたちは、キャッチボールの仕方を身につけていくのだ。
言葉の受け止め方を、できるように、わかるように、教えられる先生でありたい。
教師を目指すものなら誰だってそんな先生を目指したいじゃないか。
(サークルでの報告が載っているわけではないが、ZAKさんのnoteは熱いのでぜひ読んで欲しい。)
以前、渡辺道治先生とお話ししたことがある。
その時に教えてもらった話がある。人は事象に対して4つの捉え方をするという話だ。
当然、解決に向かうのは、たった一つしかない。
今の私に何ができるかを考える、というものだ。
渡辺道治先生は、悩むと考えるは別物だという。
答えを見つけるフリをして見つけるつもりがない。考えるフリを「悩む」という。
答えを見つける前提で、建設的に自分にできることを組み立てることを「考える」という。
教師として、自分は気になるあの子への指導を「考えて」いただろうか。
考えるフリをして、「あの子はそういう特性だから」と考えることを放棄してはいなかっただろうか。
今の彼らに自分がなにをできるだろうか。
気になるあの子がキャッチできるように伝えるにはどのタイミングでどう伝えたらいいだろうか。
指導の何倍も、関係性を築くためにアプローチをかけているだろうか。
教師の仕事は泥臭いものだ。
日常の小さな関係の積み重ねがありありとクラスの様子として見えてくる。
スマートにいい学級ができるわけがない。
「いい学級」に見える裏側には、どこかにZAKさんのような細やかな相手意識があるはずだ。泥臭く、1学期から何度も積み上げ、重ねたものが。
もっと泥に塗れなきゃいけない。
相手のグローブがどこにあるのか狙いを定めなきゃいけない。
キャッチし易いように。
心を燃やすには、心が燃えている人の近くに行くことが一番いいと聞いたことがある。
以前なにかの本で、「心はそうそうかわらない。変わったとしても2〜3日ですぐに戻る。だから、セミナーに参加する。」というような一文があって、非常に記憶に残っている。
自分の心というのは、自分では動かしにくいものだ。
だからこそ、熱い人たちとの出会いは大切にしなければならない。
仲間たちと教育について語り合う夜は熱い。