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いつも通りからの逸脱と、八百屋のおじちゃん

通学も、買い物も、”過剰”のないようにいつも通りを繰り返す。
朝はいつもちょっと遅刻気味であの交差点を走って渡る。あそこの公園を突っ切ると少しだけショートカットになる。
夜ごはんの買い出しには、家から一番近いチェーンのあそこのスーパーを使う。

ある日、それをちょっと逸脱してみたくなった。いつも横目にしか見ていなかった個人経営のさん八百屋さんで買い物してみることにした。いつも通りへのささやかな抵抗。

「見ない顔だね!お前さんこの辺の人?」
店主のおじちゃんに話しかけられる。おじちゃんは全身黒ですっきりとまとまった格好をしている。ずいぶんと馴れ馴れしい口調。でも、不思議と嫌な気分にはならない。
おじちゃんはすっとこちらの懐に入ってくるのがうまかった。私が博士の学生であること、きっと若い頃やんちゃをしていたであろうおじちゃんの恋バナや武勇伝、私が長らく恋をしていないこと…おじちゃんの話術に乗せられ、あれこれそんな話をしていると、気づいた時にはもう30分以上経っていた。

「その服、ちゃんと自分に合ってると思って着てるか~~?その一本にくくった髪型も!」
げ、もう何か月も美容院に行ってないのもばれてるのかも。

「博士の学生している子とは初めて話したかもしれないなあ。研究とか、仕事とか、それはそれで頑張っているのはすごいと思う。でも、遊びは遊びで頑張らないと満たされない部分ってのはあるからな~~。人生足し算だけじゃなくて掛け算もあるんだ、がんばれよ若者!」

私はその日、トマトだけを買って帰った。

***

自分にしっくりくる服に出会うまで何度も試着を繰り返すこと
友達と一泊二日の旅行をして、夜には一晩中語り明かすこと
誰かに恋をして、自分ではない誰かに自分を振り回されること

27歳になっても学生の身分である自分にとって、研究でまだ何も成せていない自分にとって、こうしたものは全部"過剰"なものだと思っていた。

研究で成果を出せた時、これからの進む道が確実になった時、その時初めてこうした"過剰"なことをする資格が自分に与えられるのだと思っていた。

でも、27歳の今の自分の感性で「それ」に、「その人」に、「自分」に出会えるのは今だけなのだろう。5年後、10年後、「それ」「その人」「自分」に出会っても、それはもう今と同じ様にではない。多分私はもっと、”今”にも貪欲になったほうがいい。

人やタイミングが違えば、「私のことを何も知らないくせに」「初見の人の見た目に意見するなんて、なんて失礼な人なんだ」とおじちゃんの言葉を一蹴して終わっていただろう。
でも、いつも通りを繰り返す日々には、おじちゃんのようにひょっと壁を飛び越えてこちら側に足を踏み入れてくれる人はいなかったし、その飛び越え方に嫌な気持ちは覚えなかった。また、実際私は今の私を適当に扱っていた。
おじちゃんの言葉は、そんな私の胸の奥深くに入りこんできた。
今まで”過剰”だと思っていたものにちょっとずつ目を向け始めることにした。

***

おじちゃんに出会ってから3回目の美容院。やっと自分にしっくりくる髪型になったような気がする。鏡を見ると頬が緩んでしまう。あのおじちゃんに見てほしいと思った、話したいと思った。私は、先日買ったとっておきの服を着て、あの八百屋さんに行った。

店に着くと、おじちゃんとは違う男性が店番をしていた。
その男性によると、おじちゃんは元々の持病が悪化して、数週間前に帰らぬ人となっていたようだった。

一回しかちゃんと話したことがない私が、おじちゃんに対してここであれやこれやと言うのは違う気がする。ただ、今の私を見てほしかったなあと思う、どんな言葉をかけてくれたんだろうなあと思う。

***

おじちゃんと話した日から、もう1年近く経つ。相変わらず私の将来は不確実だ。でも、今の私は5年後、10年後の私だけじゃなく、明日、明後日、一週間後の私も楽しみに生きていけているようになった気がする。

おじちゃん、ほんの一瞬だったかもしれないけれど、あの日私の人生と交差してくれて本当にありがとう。


(※「八百屋」という部分は、事実と変えています)

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