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nanaでは「健全な格差」のあるコミュニティをつくりたい #うにーのつぶやき

「誰しもに機会があるべき」

僕は昔からそう信じてきました。学生時代、部活動はずっとサッカー部だったので体育会系特有の文化で育ってきたんですが、そこにあるいわゆる”体育会系的な”理不尽さ、なかでも年齢によってチャンスが限られてしまうことが受け入れられなくて。年齢や年数、先輩後輩にかかわらず、楽しむことは誰にとっても平等で、誰しもに機会が開かれているべき。そう思っていました。

その想いは「nana」を運営していくにあたっても無意識に反映されてきたように思います。具体的には大きく2つ。

1つ目はモバイルファーストであるということ。スマホの普及によって、万人にインターネットの可能性が開かれました。結果、パソコン主流の時代よりも、はるかに多くの人々に「自身の音楽、表現を誰かに届けられる」機会をもたらすことができるようになりました。

2つ目はデジタルリテラシーにかかわらず、誰もが直感的に使い方を理解できるサービスにすること。録音できるのは90秒、元の音源に重ね録りするというシンプルな仕組みにしています。

スマホ一つで、プロとかアマとか関係なく、誰もが気軽に「表現」を始められる。僕の考える機会の平等を実現するために、この2つの軸はなくてはならないものでした。

加えて、「競争」をなるべく避けるようにしてきました。「nana」にはユーザーや投稿されたサウンドのランキング機能がありません。過去に何度か実験的に試したことはあるのですが、この格差づけから生み出される衝突が、どうしてもユーザーの幸せにつながっているとは思えず、結果的に取り下げています。サービスのサイトやSNSで、一人のユーザーを取り上げるときも、慎重に運用するよう心がけました。とにかくフェアであることを大切にしたかったからです。

ただ、昨年末くらいから「平等」への意識が少しずつ変わってきています。具体的に「いつ」というタイミングがあったわけではないのですが、次のような疑問が浮かんできたのです。

「競争そのものが悪なのかな?」

「才あるものが人気者になることは悪なのかな?」

これらを考えたときに、ずっとこだわってきた「平等」のあり方に疑問が生まれました。人と人が競い合って、技を磨いていくこと。才ある人、努力してきた人が、結果的に人気者になることは、少なくとも悪いことではない。ちょっと極端な例かもしれませんが、運動会のかけっこで最後は手と手をつないで「みんなが1位」、という考え方がぼくは正しいとは思わない。もちろん「機会」は平等であるべき。けれど「結果」まで、常に平等である必要はないのだと思います。

「nana」で目指したいのは「健全な格差」です。「格差」という言葉は差別的に見えてしまうかもしれませんが、やはり人には才能というものは存在するし、得手不得手もある。これは人の原理原則であると僕は考えています。

結果の格差はどうしても生まれてしまうし、それを制約することが正しいとは思いません。けれど、音を楽しみ、自分の表現を「好き」と言ってくれる人に出会う「機会」は、誰しもが平等に得られるようにしていきたい。同時に、自らの努力や才能によって人気者になる人たち、競争のなかで生まれるクリエイティビティも祝福していきたい。

ただ、格差は固定しやすいので、いかに流動性を生み出せるか、試行錯誤をしていく必要があります。「nana」というコミュニティにおける「健全な格差」とは何か、これからも手を動かしながら考えていきたいです。

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