手放してしまった季節

気づいたら、一番好きな季節が終わっていた。

夏が終わる頃にはあんなに楽しみにしていたのに、
なんだかここ最近、日々が流れるスピードが
とても速くて、はたと我に返ったときには、
もう、新しい年がわたしの身体を越していた。

あんなにわたしの心の真ん中に堂々と居座って、
全く動く気配のなかったあの人の温度も、
今では正直、あまり思い出せなくなっている。

共通の知人のSNSに不意打ちで現れると、未だに
心臓がどきり、と小さく音を立て、背中の真ん中
あたりが線を引くように冷たくなるけれど、
それもその一瞬で、すぐにふっと消えてしまう。

そのことに気づく度に、ほっとしたような、
悲しいような、なんとも言えない気持ちになる。

最近では、久しぶりに会った友人たちに、
口を揃えて「なんだか今は元気そうで、よかった」
と安堵の言葉を投げかけられることが多くなった。

「今は幸せそうで、よかった」と。

わたしはその度に、どんな返答が正しいのか
わからないまま、曖昧な笑顔で「ありがとう」と
答えるのだけど、答えた後、ふと一人になって
思い返すと、幸せそう、よかった、という言葉を
頭の中で反芻させて、もやもやした気持ちになる。

今、わたしは、「幸せ」なんだろうか。


冬になる前に、一度彼と、ばったり再会した。

一瞬驚いた表情を見せた後、あの、誰にでも
同じ温度で振りまく愛情のこもった笑顔で
「久しぶり」と言う彼を見て、わたしの心臓は、
また、少しだけ動いた。

けれど、あの頃みたいに身体全体がひだまりに
包まれるみたいな感覚はもう、ほとんどなかった。

どこへ行ってしまったんだろうと思うくらい、
今、彼の言葉や仕草から、温度というものを、
全く感じられなくなっている自分がいた。


夏までは、違った。

相変わらず彼の声はわたしの耳に誰の声よりも
先に届いたし、その声を聞いているだけで、
耳から柔らかな熱が少しずつ伝染していって、
最後には全身にその熱が充満した。

あの笑顔を向けられた日には、それが誰にでも
均等に配っている、特別な意味なんてない、
ありふれたものだと分かってはいても、頭よりも
先に、心や身体が彼の優しさや温もりを感じて、
心も身体も、まあるくなったような感じがした。

それは、寒い冬に飲むココアよりもわたしの心と
身体を温めたし、疲れて帰った日のふかふかした
布団よりも、わたしを芯から癒し、良いことも悪い
ことも、丸ごと全部包み込んでくれるものだった。

今でも、それらがどんな感覚だったか、覚えている。

けれど、それは頭が「知識や経験として」覚えて
いる、というだけで、実感として、覚えている、
というのとは少し違った。

その感覚を、今もう一度同じ場面が訪れたときに
抱けるか、と聞かれたら、答えはきっと、
イエスではないだろうと思った。

気づいたら、もう、一番好きな季節が終わっていた。
それは、彼と出逢った季節でもあった。

そして、今は、すべての感覚という感覚を、
鈍らせて、無かったことにしてしまう、冬。

大切に大切にしまっていた記憶や、
忘れたくても忘れられないと思っていた感情が、
自分の想像以上に思い出せなくなることは、
寒さで指先の感覚がなくなることや、
雪の下に埋れて植物が見えなくなることに、
なんだか少し、似ている気がする。

忘れていく感覚や、その時の流れすらも噛み締める
ことができないまま、あの恋は、わたしの気づかない
ところで、静かに、終わりを迎えていたようだ。

今年の冬もきっと求めてしまうんだろうと
思っていたあの温もりは、
もう、今のわたしには必要がなくなっている。

粉雪がふわふわと舞う窓の外を眺めながら、
彼は今、どこで誰をあたためているのだろう、
と思った。

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