彼が嫌いな秋のこと
最寄駅から家に帰るまでの夜道、
ふと、わたしはどうして秋が好きなんだろう、
と思った。
まだ少しの熱を帯びながら、
それでもどこか寂しげで、儚い風が優しく
肌を撫で始める頃から、葉が紅く色づき、
それすらも地面に落ちてしまう冬の入り口まで。
その、ほんの短い秋という季節が、
わたしはたまらなく、好きだった。
彼は、秋は不安になるから嫌いだ、と言った。
その点、夏は全身に力が漲って好きだ、とも。
わたしには、その感覚がわからなかった。
むしろ、どこにいてもじりじりと照りつける
太陽は、わたしから何かを感じ取ろうとする力を
乱暴に奪っていって嫌だったし、
もわっと身体にまとわりつく重たい空気は、
わたしの中の嫌なものを丸ごと包んで、
決して外には出すまいとしつこく付きまとって
くる感じがして、怖かった。
夏は、全てがどうでもよくなる。
好きなもの、嫌いなもの。
大切なもの、そうでないもの。
それらの全てが横並びになって、
何の区別もつかなくなる。
だから、間違える。
じわじわと嫌みたらしく身体に照りつける
太陽の下では、目に飛び込む景色は派手に色づき
耳から聞こえる音はいつもより大きい。
だから、自分がほんとうは孤独だったことも、
つい忘れてしまう。
誰かをずっと探し求めていた記憶も、
溶けてなくなる。
だから夏は安心する、と彼は言うかもしれない。
けれどわたしには、どうしても、
忘れてはいけないことを忘れているみたいで、
目も耳も膜に覆われて、楽しい夢だけを
永遠に見させられている気がして、
どうも落ち着かなかった。
それこそ、わたしにとって、
不安になる季節は夏だった。
秋になると、辺りは急に静まり返る。
ギラギラと目を刺激する色は淡く褪せていき、
ガンガンと耳元で鳴っていた音は、
次第におとなしくボリュームを下げる。
そして、甘やかなあのオレンジ色の花の香りが
ふわり、ふわりと風に乗って漂う。
朝も夜も、空気は澄んでいて、透明だ。
その透明な空気に乗ってその香りが鼻先に
届けられると、ああ、自分は今、
一人なんだなと気づく。
そして、あの人のことが好きだったんだなと、
思い出す。
今までの記憶を手繰り寄せてみても、
秋に、特別な記憶はあまりないような気がする。
かと言って、思い出すたび胸がずきりと
痛むような暗い記憶があるわけでもない。
秋になって真っ先に目の前に浮かぶのは、
その時ぼんやりと好きだった誰かを想い、
甘ったるい香りをすんと吸い込みながら、
音のない黒く澄んだ夜道を歩いている、
そんな情景だけだ。
毎年秋になると、同じようなことを考えながら
ただひたすら、てくてくと、
一人夜道を歩いている自分がいる。
一人だけれど、悲しくも、切なくも、
恨めしくもない。
そんな不思議と静かな感情が、心を満たす。
ただ一人だということ、そして会いたい人が
いるということをふと思い出すこの瞬間が、
なぜだかとても、心地よかった。
秋になると不安になるんだ、と言った
彼の顔を思い出す。
優しく垂れ下がったあの目には、
今、秋はどんな色に映っているのだろう。
わたしはその秋を、彼の目で見てみたい気も、
永遠に知りたくない気もする。
次に会った時は、思い切り抱きしめてあげよう。
そんな考えが一瞬だけ過って、
すぐにまたあの甘い香りが鼻先を掠め、
かき消していった。
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