今年の立夏を迎えて
久しぶりに、彼の名前を聞いた。
友人たちと話していたら、たまたま彼の話題が
出てきたのだ。
ほんの1、2分の間、わたしの心臓はどくどくと
音を立てて、彼女たちの耳まで届かないか、
気が気じゃなかった。
けれどわたしは、なんて事ないような顔をするのが
得意だから、その心配は杞憂に終わった。
彼の話題はすっと始まってすっと終わり、
誰も気には留めていないようだった。
飽き性の彼女たちは、次から次へと
「もっと、楽しい話題」へと移っていく。
ピンク色をしたレモネードやライムのソーダを
カランコロンと音を立てながら口元に運ぶ
彼女たちは、キラキラと光って見えた。
テラス席で太陽の光が直接当たる場所なのに、
わたしはいつもの癖で、ついホットで飲み物を
注文してしまっていた。
手元のホットカフェラテをじっと見つめる。
飲み物のせいか、身体にじわりと熱が伝播していく。
彼女たちの声が、徐々に遠のく。
わたしは、さっき聞いたばかりの話を
頭の中で反芻していた。
「あの子に告白して、振られたんだって。」
彼は、しばらく恋人はいらないからと言って、
ここ数年、特定の相手は作らずにふらふらしていた。
前の恋人と長かったからか、次の恋に踏み出すのが
億劫だったのか、本気で新しい恋をしようという
素振りは全く見せなかった。
現にわたしにもそう言ったし、だから、本気だった
わたしの気配に気づいて、距離を置かれたのだと
思っていた。
けれど彼は、わたしの知らないところで、新しい
恋をして、そして、静かに終わらせていた。
しかも、その相手は、わたしの知っている人
だった。
拍子抜けした。
と同時に、悲しさなのか怒りなのか、そのどちら
とも言えない感情が心臓から全身へとむくむく
広がっていくのを感じた。
「まあ、結局女なら誰でもいいんだろうねえ。
本当に単純だよね、あの人。」
呆れたように言うその声に、隣の彼女が頷く。
彼女たちの高らかな笑い声が重なり、
緑の多い、開放的なカフェのテラスに響いた。
誰でもいい…か。
彼が本当に誰でもよかったのなら、どうしてわたし
じゃだめだったんだろう。
どうしてわたしじゃなくて、彼女だったんだろう。
何が違ったんだろう。
考えても仕方がないことなのに、彼が彼女に想いを
伝えている光景を、つい思い浮かべてしまう。
その時彼は、どんな表情をしていたのだろう。
いつものへらへらと力の緩んだ笑顔はしまって、
真剣な表情で、彼女に想いを伝えたのだろうか。
わたしと同じくらいの身長の彼女を、わたしに
そうするよりも力強く、抱きしめたのだろうか。
想像したくない、と思えば思うほど、その
イメージは詳細に、鮮明に映し出された。
どうして、彼女だったんだろう。
どうせなら、ふたりが付き合ってしまえば
よかったのに。ふいにそう思った。
振られてしまったら、彼はしばらく彼女のことを
引きずる。
しばらくどころか、もしかすると永遠に、彼は
彼女のことを好きでい続けるかもしれない。
だったら、いっそ今すぐに付き合って、早く
ふたりに終わりがくればいいのに。
始まることもなかったわたしの唯一の望みは、
たったそれだけだ。
彼の恋のすべてが、できるだけ早く、
終わってほしいと願う。
そして、できればそれを、わたしは
一切知りたくない、と思う。
わたしはあれから、そんな小さな呪いを、
心の中で静かに唱え続けていた。
「あ〜、もうすぐ夏なのになあ。好きな人もいない
し、このまま誕生日を迎えるのかなあ。」
気づくと、彼女たちのグラスの中身はさっきとは
別の飲み物に変わっていた。
レモンスカッシュにいちごが浮かんだソーダ。
どちらも華やかで、これからくる季節を待ちわびて
いるような、生き生きとした顔をしていた。
手元のカフェラテは、中途半端にぬるくなっている。
こんなものをずっと飲んでいるのは、わたしだけだ。
もうすぐ、夏かあ。
たしかに、最近は夜、窓を開けると爽やかな風が
入ってくるし、毛布をかけなくても朝方寒くて
起きてしまうこともなくなっていた。
わたしが気づいていなかっただけで、
季節は、巡っていたみたいだ。
道理で、彼の話を聞いても前ほど胸を痛めなく
なったわけだ。
でも、時が経っても変わらないものは変わらない、
ということも知っている。
叶わなかった恋は、どれだけ季節が巡っても、
決して終わることはない。
死ぬまで永遠に続く、小さな呪い。
それと一緒に、わたしはこれからも、生きていく。
「ふたりとも、誕生日近かったよね。
今年はみんなでお祝いしようよ。」
いいねいいね、と隣ではしゃいだ声が聞こえる。
「あ、でも当日はデートかな?」
茶化すような目つきでふたりが見つめる先が
自分だと気づくのに、しばらくかかった。
今思い出したけれど、そういえば、恋人に、
誕生日は空けておいてと言われていた。
歳を重ねるごとに、あれほど大切にしていた
誕生日の存在感が少しずつ薄れてしまっている。
けれど、律儀な彼は、張り切って準備をしてくれて
いるようだった。
恋人と出会ったのも、全くの偶然というか、
ほとんど奇跡に近かった。
なんてことない日曜日に、出かけようと思って
いなかったら。
あの時間に、あの電車に乗っていなかったら。
そもそも出会わなかったし、好きにもなって
いなかった。
偶然に偶然が重なって、今ができあがった。
彼も、そうだったのかもしれない。
偶然家が近くて、偶然悩んでいたときにそばにいて
くれて、偶然、彼女を好きになった。
偶然。
わたしは彼の「偶然の網」に、引っかからなかった
だけ。
そして、別の人の網に、引っかかった。
ただ、それだけ。
それだけだったんだ。
帰ったら、冬の間ずっと愛用していた毛布を
しまって、クローゼットの中身も衣替えしないと
いけないなあ、と、ほんやり思う。
ついでに、去年彼のために買った服は、
全部捨ててしまおうかな。
そして、誕生日に着る、新しいワンピースを買おう。
真っ白で、上品な、わたしだけのための。
ぬるくなったカフェラテの代わりに頼んだ
ジンジャーエールは、少し苦くてぴりっとした。
でも、しゅわっという軽やかな音と飲み込む時の
喉への刺激が、なんだか爽快で、心地よかった。
甘さと冷たさが、緩やかに身体に染み渡る。
「今年は、どんな夏になるんだろうなあ。」
「楽しい夏に、したいねえ。」
呪いは消えないままだけど、去年よりは、
「きっと、いい夏になるよ。」
彼女たちに見つめられながら、わたしは
掌の中のジンジャーエールを、豪快に飲み干した。
もうすぐ、今年の夏がくる。
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