「お裾分け」は、愛しいあなたの生への祈り
昔から、好きな人にやたらと食べ物をお裾分けする習性がある。
以前付き合っていた恋人には、親戚の家からさくらんぼが届く度に「お裾分け」と言って、わざわざ家まで取りに来てもらった。
好きだった会社の先輩には、わたしが愛してやまない食パンを一枚、お裾分けしたいからという理由でお昼休みに会いに行った。
いま考えてみると、たいして仲良くもない別の部署の後輩から突然「食パンをお裾分けしたいんで…」と呼び出される先輩の気持ちを想像しただけで、申し訳ない気持ちになる。
さらにそれを笑顔で受け取ってくれた先輩の優しさを思い返す度、涙が出そうにもなる。
わたしだったら絶対に、そんな食パンは食べない。(もったいないから最終的には食べるのだろうけど。)
さすがにその時ほど意味不明なものをプレゼントした経験は他にはない(と、思いたい)けれど、好きな人には、旅先で見つけたその土地のおいしいものなんかを、ついつい買って帰ってしまう。
家に帰って並べてみたら、「お土産屋さんが開けそうだな…」と驚くことも、よくある。
そして、それらは結局本人には渡せずに、自分で食べてしまうことの方が多い。
(その度にわたしは、しんみりした気持ちに浸りながらも、ひとりでその味を噛み締めるのだ。)
どうして、食べ物なんだろう。
また好きな人に渡せず、自分の口の中で砕けてゆくクッキーのサクサクという軽快な音を聞きながら、ふと思った。
おいしいものは好きな人と分け合いたい、そんな可愛らしい理由だってもちろんある。
だけどそれ以上に、もっと大きな理由があるのだ。
好きな人に、明日も生きていてほしい、と願っているから。それが、一番の理由。
そんなばかな、と笑われてしまうかもしれないけれど、好きな人には、どこか遠く離れた場所にいたとしても、元気で、毎日笑って生きていてほしい、と思っている。
わたしがお裾分けした食パンや旅先のお菓子なんかが、その人の栄養状態を改善するのかと聞かれたらきっとそんなことはないし、それらを食事の足しにするようなギリギリの生活を送っているわけではないことは、わかっている。
だけど、食べることは生きることだし、普段はその人の生活に入り込むことなんてできない自分が、それでもその人の生に関わることができる、そのことがただ、嬉しかった。
それは、相手に想いをこれっぽっちも伝えられないわたしの、唯一の希望なのだった。
「食べ物をあげることで好きな相手の生命に関与しようとするとは、なんて低俗で浅はかな考え方なんだ…」と、思われるかもしれない。
全くもって、その通り。
だけど、そのような行動に至るときのわたしの心は純粋に、その人の笑顔と、明日を力強く生きる姿を思い浮かべている。
好きな人には、自分が見えていないところでも、お腹を空かせて悲しい気持ちになっていませんようにと、いつも祈っている。
大体そういう相手には、わたしなんかいなくても、自分でおいしいものを買って食べるだけの経済力か、健康的な食事をつくってくれる相手が、すでにいるのだけど。
とはいえ、この「好きな人に食べ物をあげたい」という感情と習性は、これから先も、きっと変わらないだろう。
どうか、わたしから何か食べ物のお裾分けをされた時は、怖がらずに受け取ってほしい。
わたしがあなたに渡したいのは、食べ物そのものではなく、「今日も好きです」「だから明日も、元気に生きていてください」という、限りなく無垢でまっすぐな、願いだから。
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