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夏と美瑛と戻れないふたり


美瑛に来た。

もう、恋人同士ではなくなった彼と。


別れる前の、最後のわがままだった。

彼には、爽やかな風が少しずつ熱さを帯び始めた

初夏に、あっさりと振られた。

初めは、何を言われたのかわからなかった。

永遠に続くと思っていた恋は、3年という、

その頃のわたしにとっては早すぎる月日を経て

幕を閉じた。

けれどその終わりがあまりにも唐突すぎて、

わたしは幕が本当に降りてしまったのか、

しばらくわからずに呆然としていた。

わからなかったから、わたしはまだ恋の続きを

一人でやっていて、だから、北海道行きも、

至極当たり前のように提案できた。

彼は最初は渋っていたが、わたしがあまりにも

当然の権利のように主張するので、最終的には

そのまっすぐな訴えに折れた。


彼にはもともとこういうところがあるのだ。

よく言えば優しく、悪く言えば流されやすい。

わたしはそこに付け込んだ。

ただ、情に負けた、というのもあると思う。

3年という月日は、彼にとっても決して

短いものではなかったのだ。

それが救いなのか、ふたりの首を絞めているのか

は、今はまだ考えないことにした。



夏の終わりの美瑛は、すでに秋の匂いを

ほんのり感じるような、ひんやりとした

空気をたたえていた。

わたしたちはレンタカーを借りて、

目的地のセブンスターの木を目指していた。

雑誌で見て、わたしが行ってみたいと言った

ところだった。

旅行中は、わたしが恐る恐る彼の手に触れても、

怒らずにそのままにしてくれた。

むしろ、向こうから指を絡めてくることも

あった。

その感覚が懐かしくて、恋しくて、何度も

喉の奥からこみ上げてくるものを抑えた。

ここは北海道、知り合いなんて一人もいない

遠く離れた街だから、彼も周りを気にせず

振る舞える、ただそんな理由にすぎない、

ということはわかっていても、心の底から

ゆっくりとこみ上げてくるあたたかい気持ちを

止めることができなかった。

今だけは、馬鹿だと言われてもいいから、

これを幸せだと信じていたかった。


「着いたよ」

彼が窓の外に目をやりながら、

ゆっくりと車を道の端に止める。

ドアを開けて外に出ると、その木は写真で

見ていたそれより、なんとなく小さく見えた。

一緒に写真撮ろうよ、と言うわたしに向かって、

彼は鬱陶しそうに顔をしかめる。

ああ、危ない。

また期待してしまいそうになった。

わたし達はもう、恋人同士じゃないんだ。

慌ててゆるんだ気持ちに栓をしようとしたら、

仲の良さそうな年配の夫婦が声をかけてきた。

「写真、撮りましょうか?」

外面がいい彼は、わたしにはもう見せなくなった

その笑顔で、じゃあ、お願いしますと

爽やかな笑顔を見せて言った。


大きな木の下で、並んではにかむ写真の中の

ふたりは、数ヶ月前となんら変わりのない、

その辺にいる仲の良いカップルに見えた。

写真の中のふたりは、今も、いやこれからも、

全く変わらないあの頃のふたりに見えた。

そのことがまた、わたしの心をぎゅっと強く

締めつけた。

甘くて苦いものが、喉の奥を伝って落ちた。

その痛みすら、今のわたしには愛おしく思えた。



帰り道は、もうすでに真っ暗だった。

札幌のホテルまで戻る道のりは、カーナビに

よると、あと2時間あるらしかった。

暗闇の中、ふたりきり。

その状況が、なぜかわたしを安心させた。

このままふたり、永遠にこの夜道を

走り続けられればいいのに。

この先にどんな未来があったとしても、

今ならそれを乗り越えられる自信があるのに。

それがどんなに暗い未来だったとしても、

この人の隣にいたい。離れたくない。

いくらわたしがそう願ったところで、状況が

何も変わらないことはもう嫌という程わかって

いたけれど、もはや生まれてくる感情たちは、

わたしの手には負えないところで大きく

大きくなっていった。

わたしはその感情のひとつひとつを、ただ

ぼうっと、見つめることしかできなかった。


明日には、東京に帰る。

この旅行から戻ったら、わたしから

別れを告げる。そう決めて、この旅行に来た。

だからこの旅行は、最後まで楽しもう。

そう決めてここまで来た。

はずだったのに。

痛みでもいいから、彼の存在をそばに感じて

いたいと思ってしまう自分がいた。

もう一度あの頃に戻れる、そんな淡い夢を

信じてしまう自分がいた。

そんな自分に気づいては、何度も何度も、

その幻を飲み込んだ。



車内に流れる音楽に合わせて口笛を吹く彼の

横顔は、もうわたしが知っている彼の横顔では

なかった。

こんなに遠くまで来ても、やっぱり、

結末を変えることはできなかった。

もう、受け入れるしかなかった。

車のヘッドライトがかろうじて照らす道は、

目を凝らしても、ずっと先の方までひたすら

暗闇が続いていた。

外の空気を吸いたくて、窓を開ける。

熱が冷めて少しだけひんやりとした空気が、

次第に車内に充満する。


もうすぐわたしが一番好きな季節がやってくる。

今年も例年通り、落ち葉が敷き詰められた道を、

しゃり、しゃりと音を立てながら、ふたりで

手を繋いで歩くんだと、当たり前に思ってた。

涼しくなってきたら、道端で焼き芋を買って、

半分こして、美味しいねって笑い合う。 

そう、なんの疑いもなく思ってた。

でもそれは、今となっては過去だった。


「寒いから、窓閉めて」

そう乱暴に吐き捨てられたその言葉すら、

今はまだ自分に向けられた言葉であるという

だけで、愛おしかった。

残酷なくらい、好きだと思った。

大好きだと思った。

それは今も変わらなかった。

これから変わる自信も、今はまだなかった。


彼の言葉には何も返さずに、黙って窓を閉める。

幸せだった美瑛の夏を、心にそっと閉じ込め

蓋をする。

まだひんやりとした空気が車内に残っているのを

感じながら、滲んだ風景から目を逸らすように、

わたしは静かに目を閉じた。

美瑛の夏が、どこかで終わる気配がした。

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