見出し画像

夏の蓋は開いたまま


情けないけれど、わたしは、

まだ彼のことを忘れられない。


終わった、なんて格好つけて宣言したものの、

わたしの中では、あれから全く終わってなんか

いなかった。

「彼のどこが好きだったの?」

そう聞かれて考えるたびに、彼の表情や言動、

仕草のひとつひとつを思い出しては、

またあの頃に逆戻りする。

考え始めると、すぐにあの頃の自分に

戻ってしまう。とても、とても簡単に。

成長したね、なんて周りには言われたけれど、

わたしの気持ちはあの頃から、驚くくらい

何も変わっていなかった。

むしろ、深まってすらいた。


声が聞こえるたびに、耳が思い出す。

名前を見るたびに、目が思い出す。

姿が見えていなくても、見るものかと必死に

抵抗していても、全身が、彼の引力に

引き寄せられる。

本当に情けないのだけど、わたしはまだ、

彼のことが忘れられていないのだ。

何度も忘れようとした。諦めようとした。

新しい恋を重ねることで、自分の心の蓋を

無理やり閉じようとした。

それでもわたしは、彼のことを何度も、

何度も思い出した。

進んでは戻って、の繰り返しだった。

思い出すたびに、むしろ気持ちは確かなものに

なっていった。

皮肉なことに、新しい恋たちは、彼への気持ちに

蓋をするどころか、わたしのことを弄ぶかのよう

に、せっかく閉じた蓋を軽々と開けていった。


誰かと並んで道を歩くたび、

曇りが好きだと言った彼の横顔を思い出した。

誰かと電車で向かい合うたび、

どっちが揺れに耐えられるか勝負ね、と言った

無邪気な笑顔を思い出した。

誰かに抱きしめられるたび、

わたしの周りの空気ごとあたためる、

彼の温もりを思い出しては恋しくなった。

彼がいる情景のひとつひとつが、

完璧な映画のワンシーンのように、

わたしの中にくっきりと焼き付けられていた。

思い出しては、心がぎゅうと小さく音を立てた。

わたしの心を占める彼の存在感の大きさに

気づいては、何度もそれに驚かされた。

忘れる、ということより、思い出さない、という

ことの方が、ずっと難しいことなのだと知った。

彼みたいな人が、好きなわけじゃなかった。

彼だから好きになった。好きになってしまった。

好きで彼を好きになったわけじゃなかった。

本当だったら、好きになんてなりたくなかった。

でも、気づいたら好きになっていた。

抗えなかった。

彼の豪快な笑顔を思い出すたびに腹が立つ。

悔しいほどに、その笑顔が好きだった。


今、たとえどんなに大切にしてくれる素敵な

恋人ができたとしても、彼の姿が目に入って

しまえば、間違いなく一瞬であの頃の自分に

戻ってしまうのは分かりきっていた。

たぶん、どんなに素敵な人と結ばれたとしても、 

そこそこの幸せしか得られなかった。

かといって彼と一緒になれたとしても、決して

幸せになんてなれないことも、わかっていた。

往生際が悪い。そんなのはわかっている。

そろそろ前に進まないといけない。

けれど、今の自分には、彼を好きな気持ちに

蓋をする方法がわからない。

もう、初めて出会った夏から、

一年が経とうとしているというのに。


いつかこの蓋が閉まるときが、くるのだろうか。

その答えは今も見つからないまま、

今年の夏も、涼しくなった暗い夜道を、

ひとり、歩き続けている。

いただいたサポートは、もっと色々な感情に出会うための、本や旅に使わせていただきます *