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世界の夜の真ん中で

世界はずっと、平和だと思ってた。

ほんの数週間前までは。


「桜が咲く頃に、また会おう」

なんだかロマンチックだから、というくだらない
理由で、あの日、私たちは手を振って別れた。

あれから世界は、突然空に現れた黒く厚い雲に
覆われて、その後すぐに、真っ暗になった。

日々の音は次第にボリュームを下げて、
生活の色は、段々と霞んで見えなくなっていった。

毎日が、昨日の夜の続きを延々と繰り返している
みたいな日々が始まった。


私たちは長い間、恋人同士というわけでも、
かと言ってただの友人というわけでもなく、
二人の距離感で、ただなんとなく、一緒にいた。

あえて事前に約束をすることはなかったし、
一ヶ月間くらい会わない時だってあった。

お互い仕事が忙しかったし、約束なんてしなくても、
会おうと言えばいつでも会える距離にいた。

そんな気軽な関係が、私たちにはちょうどよかった。
ちょうどいいんだと、思っていた。

世界がこんな風になるまでは。

夜がきてから、私たちの力が及ばないところで、
静かに、だけど確実に、終わりの空気を一緒に運んで
近づいてきていることに、私は、気づいていた。


テレビのニュースでは、連日事態が悪化していること
を、キャスターが深刻そうな表情で伝えている。

それをぼんやり眺めながら、指を折って数える。

私たちは、もう一ヶ月以上、会っていなかった。

普段なら一ヶ月などなんてことない期間だけど、
今回は、なんてことない、と笑い飛ばすことが
できないような、不穏な空気がまとわりついていた。

たしかに、ここ一ヶ月、わたしの生活は
思ったよりも慌ただしかった。

けれど、彼に連絡を取ることは、いくらでも
できたはずだ。

本当はどこかで、彼のことを思い出さないように
していたのだろうと思う。

新しい生活の刺激で自分の目や心も雲で覆って、
そんなことを考えている場合じゃないんだと、
見て見ぬふりをしていた。

日々刻々と変わる状況に翻弄されて、それでも
前を向いて、自分よりももっと不安な誰かを救う
ことだけに集中した。

そうするしか、なかった。
私にできることは、それしかなかった。


「今年こそ、桜並木の下を歩きたいなあ」

季節ごとに花や植物を見に行きたがる私をいつも
理解できないと言う彼は、ほんとは花なんて少しも
興味ないくせに、その時だけはなぜか、軽快に笑って
「行こう行こう」と乗り気だった。

ただ機嫌がよかっただけかもしれないし、もしかする
とその時は、お酒でも飲んでいたのかもしれない。

だけど、彼のそのまっさらな優しさが嬉しくて、
愛おしくて、なぜか急に抱きしめたくなったのを、
ついさっきのことのように覚えている。

きっとまた実現しないんだろうなあとぼんやり
頭の片隅で考えながら、それでもたしかに
嬉しくて、ほんの少しだけ、桜の下を並んで歩く
二人を想像してみたりした。

今にもあの桜のうっすらと甘い香りがするようで、
これを幸せと呼ぶのかなあなんて、柄にもなく
一人で頬を緩めた。


世界が幕を閉じてから、私も彼も、
お互いに連絡を取っていなかった。

私はなんとなく彼に遠慮したからだけど、
彼はたぶん、自分のいるべき場所を守るのに
精一杯なんだろう。

私たちには、お互いに、いるべき場所がある。
その場所は、二人、同じ場所じゃない。

そんなことはよく分かっていたけれど、
二人とも、考えないようにしていた。

幸せの終わりを、先延ばしにしていた。

でも、やっぱりどこかで私たちは、これからも
なんとなく、この関係がだらだらと続いて、
終わりなんてこないんだろうなあと、
きっと楽観的に考えていたのだと思う。

けれど、実際は、そんなことはなかったのだ。
世界の方が、先に、私たちに終わりを告げた。

どんな関係も当たり前に終わってしまうことを、
容赦なく、宣告してくれた。


私は彼に、連絡することすらできない。
身を案じることすら。

私にはそれが、許されていないのだ。
そのことが、何よりも、胸を裂いた。

何度もメッセージを打っては、静かに消した。
それらはあまりにも薄っぺらくて、軽かった。

宙に浮いた言葉たちは、受け取り主を失ったまま、
しばらく部屋の上の方をふわふわと漂っていた。


あれが最後なら、もっとわがままを言って
困らせておけばよかった。

困った時の、眉を下げて笑うあの顔が、
大好きだったことを思い出してみる。

そういえば、彼に自分から好き、という言葉を
伝えたことはなかったような気がする。

彼はいつも愛情を伝えてくれたのに、自分の
気持ちの方が明らかに重いことを悟られたくなくて、
余計な見栄を張っていた。

でも、こんな風に世界が急に終わってしまうなら。
それがわかっていたら。

プライドだなんだと言って格好つけずに、
もっと正面から、好きだと伝えておけばよかった。

桜が咲く頃に、なんて遠い約束なんかしないで、
桜が咲くまで、毎日一緒に見ていようよとか、
迷惑がられてもいいから言っておけばよかった。

彼ならきっと、それも笑ってくれるはずだった。


あの日、世界はまだ平和だった。

ずっと、このくだらない日々が続くと思ってた。
終わりなんてこないだろうと、当たり前に信じてた。

これまで私たちは、なんて贅沢な日々を
過ごしていたんだろう。

桜はもう、散ってしまった。
彼と見ることは、できなかった。

…でも。

花びらが散ったって、
桜の木は、まだ生きているじゃないか。

今だって、眩しい緑の葉が顔を出し始めている。

葉桜を見るのだって、たまにはいいかもしれない。
桃色の花びらにばかり目を奪われてきたけれど、
緑だって、生き生きとしていてきっと綺麗だ。

葉桜すら、見ることができなかったら。
その時は、落ち葉を一緒に踏みしめればいい。


なんだっていい。
もう一度、彼と一緒にいられたら。

いつまで世界が暗闇に包まれているのかなんて
私には全くわからないし、もしかすると、
もうこのまま夜が明けることはないのかもしれない。

だけど、世界が終わったとしても、まだ、生きてる。
私たちの世界は、続いていく。きっと。

それなら私は、何度だって、約束がしたい。

叶うかどうかなんてわからないけど、彼と、
この先を、ずっと描いていたい。

今更こんなことに気づくなんて、本当に情けない。
でも、まだ、手遅れではないかもしれない。


世界が終わる前に、
あなたに出会えてよかった。

そんなことを言ったら、彼はなんて言うだろう。
どんな顔で私のことを見つめるだろう。

この夜が明けたら、
今度こそ、彼に連絡してみよう。

そう思ってスマホを手に取ったとき、
画面の上に、ふいに見慣れた名前が表示された。

心臓が、心地よい音を立て始める。
それはとても、懐かしい感覚だった。

もしかすると、世界はまだ、終わろうとなんて
していないのかもしれない。

そう思うと急に背中を押されたような気分になって、
今度はちゃんと、送信ボタンを押すことができた。

最後の桜の花びらが、夜風に乗って
ふわりと飛んでいくのが見えた。

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岡崎菜波 | nanami okazaki
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