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晩夏の夜に


「懐かしい」という感情は、全てを過去に

引き戻す強い引力がある。


あのときの匂い、肌に触れた空気、音。

それはそれは些細なきっかけで、一瞬にして

「あの頃」に戻ることができる。

だけど、だからこそ懐かしいという感覚は、

危険でもある、と思う。

時が経ち、懐かしいと感じられた思い出は

いつも、わたしの中で完璧に、

幸せな記憶へと塗り替えられている。

あのときはあんなに痛くて、広がっていく傷を

直視することすらできなくて、触れもしなくて、

永遠に立ち直れないと思っていたことも、

自分のものとは思えないくらい暗く、醜く

黒い感情たちも、やがて、やさしくて甘い記憶へ

と姿を変えて、心の中の1ページに収まっている。


そして、美しく光を放っていたりする。

思い出して、あたたかい気持ちになったりする。

懐かしいという感情が、恐ろしい。

甘い魔力を前に何も考えられなくなって、

また、同じ過ちを繰り返しそうになるから。

でも、同じくらい、「懐かしい」という感情が

たまらなく、愛おしい。

そのことに、今、わたしはとても戸惑っている。


久しぶりに正面から見つめた彼の目は、

あの時から何も変わらない、

わたしの心を揺さぶる、透き通った瞳だった。

耳に入った彼の声は、今もわたしの心に真っ直ぐ

届く、身を削るような切なく響く音だった。

何も変わっていない、はずはないのだけど、

変わって欲しくないところは、

変わっていなかった。ように見えた。

わたしを過去に戻すには、もう、

それだけで充分だった。


全てがあの頃に戻ろうとしていた。

わたしの心は、もう自分でも捕らえることが

できないほど、あの頃に巻き戻されていく。

哀れだとも、愚かだとも思う。

こんなものは、懐かしさの魔力に過ぎないと。

でも、今抱いているこの感情が、

ただの懐かしさからくるものなのか、それを

判断することは、今の自分にはできなかった。

もしかしたら、判断する必要は、

ないのかもしれなかった。

今は、この懐かしいという感覚が、

心地よかった。

ただ、それだけだった。



お盆が過ぎ、夜の空気にこもる熱は、

少しだけその力を弱めている気がする。

まだまだ日中は暑いのに、

途端に秋が来たような、静かな夜だ。

あれほど一緒に見てきた月を、

それでも心が遠くにあって掴めなかった彼と、

今ならもう一度、並んで眺めることが、

できるような気がした。

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