【こころの記憶】2022年上半期
まだ、6月とは思えないほど、暑苦しい日がつづきますね。
このままでは、地球上のすべての生き物たちが「ゆでガエル」状態になりかねないのではと、本格的に心配しています。
じわじわと、地球の異常さは増していっているようです。
あっという間に2022年も半分を迎え、後半戦に入ろうとしています。
さて、今回も、私の自己満note。
今の私から、半年前の私を振り返っていきます。
あくまで、自己満。
自分自身が感じてきたことや身に起きた出来事を、思い出せる「記録」を残すことは、その時の自身をより豊かにしてくれることだと思うのです。
だから、私は、残す。
その時の自分のために、言葉を残す。
私がその時のために残した言葉たちは、思いがけないところでヒントとなり、背中を一押ししてくれる。
ついさっきまで、今年のノートを振り返って読んでいた。
ありのまま表現していながらも、自分自身を鼓舞する表現が目立った。
「大丈夫」「私はーあなたはー美しい」「生きているだけで素晴らしい」
何者かであること、何かに打ち込むこと、動き続けること。
これらが「正義」だと、思わざるを得ない環境にいる、けれども、ひと一人が生きる意味はそこではないと、私は言い続け、その信念を信じたいのだ。
だから、今日を迎えられたこと、命があること、感じ考え選択できること、誰かに愛されていること、そのものが生きている証であり、今の私、あなただ。
今、ここにあるいのちのすべてが美しい。
これは、私が唯一、疑うことなく信じられる事実なのかもしれない。
手放すことと選択
この半年間で、数多くのー。とまでは言わないけれど、私にとって大きなピースをいくつか手放した。
ときめくか、そうではないか。
愛せるか、そうではないか。
本当に、心の底から、ときめくものだけ選ぶことは、そう簡単なことではないけれど、そうしようと少し思いとどまって心の声を聴く。
その声を聴くという小さな積み重ねで、少しずつ、ときめくものが分かった。体がしびれるほどに感じる何かが何なのか、思い出してきた。
一度、その感覚を味わうと、下手に選ぶことは自然となくなる。
大切なのは、選ぶ前に手放すこと。
手にいっぱい荷物を抱えたまま、新しい荷物を持とうとしても、持ちきれない。途中で大事なものを落としてしまいかねない。
だから、新しい風が入ってきやすいように、新しい荷物をきちんと抱きしめられるように、一度持っているもので「いらない」と思うものは手放す。
「ありがとう」を伝えきって、気持ちよく手放す。
自分のこころの声を、これでもかと聴いて、従う。
「待った」がかかったのなら、その時に無理に手放さなくていいし、選ばなくていい。
でも、気持ちよく手放した後に見える景色は、これまでのものとは比べ物にならないくらいに美しい。きっとね。
整理する。勇気を持つ。
手放す直前も、選ぶ直前も、きっとこころがざわつく。
よくもわるくも、目の前のことがそれでいっぱいになる。
誰かの助言は右から左で、都合のいいことしか聞こえなくなる。
今も、「危険なこころのざわつき」と「本当のこころからのわくわく」は見分けがつかない。
どっちも似たような感覚になるから、その時にどうするかを選ぶのはめちゃくちゃ難しい。
去年の夏は、「危険なこころのざわつき」に直面し、危うく選択をしくじるところだった。
でも、それは正直、”今になって”分かることであって、そのときは分からないから、自分の選択に懸けるか、踏みとどまってまた更に考えなおすかしかない。
どっちにしろ、自分のハートに従うのだ。
少し整理する時間をとってもいいし、考えることから離れてもいい。
忘れられないくらい、それが自分のこころをかき乱してくるなら、私はたいていそっちを選ぶ。
今は少し、頭と心をクールダウンさせて、整理しているところ。
どの選択をするにしても、「勇気」が必要。
諦める勇気。
飛びこむ勇気。
待つ勇気。
新しい選択をするのには、なんかしらの「勇気」がいる。
今の私は、伝える勇気がほしい。
自分の身体中をめぐる、ズキズキ、ワクワク、ドキドキする音を、言葉にして大切な人に伝えたい。知ってほしいと願う。
「感情」以上の「感覚」は、思った以上に言葉にするのが難しい。
きれいごとは言いたくないし、嘘はぜったいにつきたくない。
愛だ。愛。
愛を選ぼう。ゆっくりでいい。「選びたい」と体を突き動かす何かが、いつか必ず訪れる。
そうしてー。
手放す勇気一つで、見える景色も、体中に流れ込んでくるものも変わった。
見える景色は、よりシンプルに、自分の核心に触れるようになり、
体中に流れ込むものは、より自然の音に近く、体の底からポジティブな感覚が湧き上がるようになった。
手放したものがたとえ一つでも、私の中に入り込んできてくれるものは、たった一つではなかった。
感じて、すぐ動くのも手。
感じて、整理して、待つのも手。
さあ、どう進もうか。いつ、選ぼうか。
私は自由だ。
気付けば、いろいろな変化が自分の身に起きていた。
見える世界は日に日に大きくなり、感じること考えることは日に日にスケールを増す。
ちょっと前に自信満々に発言していたことも、今ではとてもちっぽけなことに感じられる。世界がどんどん広がっていることに、「一体どこまで広がるんだろう」という少しの不安も、ないこともない。
でも、それ以上に、約3ヵ月前に確かに感じた、私の体内の奥底から湧き上がるゾワゾワっとする感覚が、現実味を帯びてきていることへのワクワクする気持ちが大きい。
「ワクワク」と表現してしまうには、何だか幼稚くて物足りない気もするけれど、私が知っているこの手の表現で一番ポジティブに感じられるし、誰にでも分かりやすく伝わるから、ワクワクしていようと思う。
私が見た、感じた世界は、ちょっとぶっ飛んでいて、今の私からしたらありえない世界。でも、なんだか現実になりそうで、本当に叶えられちゃいそうで、ワクワクする。
私は「現実」を、どこかに置いてきてしまったようだ。
あとがき
同じような表現で埋め尽くされてしまったようにも思うけど、この半年間は確かに手放してきた。手放したもの以上の何かが、私の元へやって来てくれた。
どこからともなく、私の元へ舞い込んできてくれた「教え」はたくさんある。
誰かからアドバイスされたわけでも、ネットから引っ張ってきた訳でもない。
私にとって、大切で必要なメッセージは、必要な時に私の元へ舞い込んできてくれた。姿、形を変え、私の元へやってきた。
それに気づけなかったときも、もしかしたらあったかもしれない。
でも、気づいた瞬間の方がきっとたくさんだった。
だから、今の私がある。
感じて考えて、私だけの記憶となり、私の大事な一部となった。
手放したいくつかのピースは、これまでのそれとは違う形で、私のピースとなった。
2022年の半分を迎えるときの私はこんな感じ。
今だけの感覚。今の記憶。
全てを生きる糧にして、残りの半年間も愛する気持ちたっぷりに生きていく。
これから、ドリームプラン、つくります。
たくさんの出逢いを、自然の恵みを、尊いいのちを、ありがとう。