【読書ノート】横田耕一(2014)『自民党改憲草案を読む』_#04
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4 国民は憲法を守れ!
立憲主義憲法の大原則
立憲主義憲法の大原則は「憲法は国家を縛るもの」。
憲法によって縛られるのは国民に権力を信託された人たち。
彼/彼女らは憲法を守る(遵守する)義務がある。
一方、国民の側はそのような権力の受託者に対し、憲法を守らせる立場にある。
国民の側は「遵守」という意味で憲法を「守る」義務はない。
受託者の遵守義務違反に抵抗し憲法を保護(擁護?)するという意味での「守る」(護る)権利ならある。
その証拠に日本国憲法99条の憲法尊重擁護義務の主体に「国民」は見当たらない。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」
※【遵守】(じゅん‐しゅ)
法律や道徳・習慣を守り、従うこと。(デジタル大辞泉)
※【尊重】(そん‐ちょう)
価値あるもの、尊いものとして大切に扱うこと。(デジタル大辞泉)
※【擁護】(よう‐ご)
侵害・危害から、かばい守ること。(デジタル大辞泉)
日本人の憲法観
したがって、「憲法を守らなければ(遵守しなければ)ならないのは誰ですか」との問に「もちろん国民です」と答えるのは筋違いである。
日本の官僚や政治家、特に後者の大方にあっては、自分たちこそが憲法を遵守しなければならないという意識が希薄。
国家の行う事項が違憲ではないかとの疑問が呈されたときなどにも、
「神学論争だ」などとして議論を回避したり、
「現実的な要請だ」などとして憲法を無視したりするような事態がしばしば見られてきた。
なにも米国が優れているわけではないが、もしブッシュ・ジュニアであっても米国大統領が「憲法はちょっと置いておいて……」とか「憲法はともかく……」といった具合に憲法を棚上げして何かを行えば、彼は直ちに失脚したであろう。
米国議会において憲法論争が活発であるのは、憲法を遵守して初めて権力行使ができるという意識がそれなりに定着しているからであろう。
これに比して日本では、政治家に憲法遵守の意識が欠けているとともに、国民の側にも政治家に憲法を守らせなければならないという緊張感が圧倒的に欠けている。
「契約」概念の欠如
あまり一般化してはいけないが、こうした状況の背景には日本人のルールに対する意識も与っているように思われる。
(例)「道路の走行制限スピードを20キロオーバーしたくらいで取り締まるのはおかしい」という最近の一大臣の発言
日本ではルールはあくまで一つの目安であって、それを厳しく遵守することは必ずしも必要ないばかりか、むしろ融通のきかない避けるべきことのように考えられている節がある。
ユダヤ教やキリスト教の社会では、神との約定を基礎に持つ「契約(covenant)」概念が絶対性を帯びる。
「立憲主義憲法」もまた「社会契約」という契約を前提としている。
契約に対するずぼらな態度が、憲法遵守に対する態度をもずぼらにしているのではなかろうか。
※テキストでは、「柔軟な態度」「柔軟化」という表現だったが、「柔軟」はいい意味で使われることが多いので、ここでは「ずぼら」とした(もちろん悪い意味や価値中立的な意味で使うことも可能だし、それでも問題はないとは思うのだけど)。
戦後憲法教育の問題点
より根本的な問題は、「憲法を遵守しなければならないのは権力を信託された人たちだ」という立憲主義憲法の大原則が、政治家を含め国民一般に浸透していないことである。
学校教育や社会教育の中で、「法の支配」(権力行使者は高次の法に従わなければならない)が説かれることはあったが、
「憲法は国家(権力行使者)を縛るものだ」
「憲法を守らなければならないのは国家(権力行使者)で、国民ではない」
ということは、どれだけ教えられてきたであろうか。
そもそも、制憲後の出発点から、教育・啓発内容に問題があったといえよう。
『あたらしい憲法のはなし』
1947年から1951年度までの中学校の教科書
国民が憲法を守る(遵守する)ことを強調し、付加的に天皇や公務員も守る義務があると説いていた。
宮沢俊義
戦後憲法学界の重鎮である宮沢も同名の子ども向けの本で、99条の憲法尊重擁護義務は国民全部が負うが、実際に政治を動かすのは公務員であるから、その彼/彼女らの義務を「とくにとりあげた」ものであると教えていた。
これ以降も「権力を縛るのが憲法の目的」という大原則は、教育・啓発において曖昧にされることが多かった。
したがって、国民にその大原則の認識が稀薄であるのは当然であり、その責任の大部分は、私たち憲法学者を含む教育に携わる者が負わなければならない。
憲法原則の大逆転
『案』102条はこうした国民の意識状況を利用し、憲法について
真っ先に国民に尊重義務を定め、
公務員からは尊重義務を外し擁護義務に絞るとともに、
天皇や摂政からは尊重擁護義務を全面的に取り除いている。
国民が憲法を尊重し、権力行使者である公務員が擁護する。
これは立憲主義憲法の原則の大逆転であり、憲法の意味を根本的に変えるものであることは言うまでもない。
※憲法尊重擁護義務とは
【憲法尊重擁護義務】(けんぽうそんちょうようごぎむ)
「憲法を遵守し,憲法の実施を確保すると同時に憲法違反をすすんで防遏するよう努力する義務をいう。国政担当者にこの義務を課し,憲法の尊重擁護を宣誓させることは,近代以来の最も一般的な憲法保障の方法である。国政担当者にとくにこの義務を課すのは,憲法は主権者たる国民が人権保障を目的として国家権力を拘束するために制定したという近代憲法の理念に基づくものであり,そこでは,国民は,国政担当者による憲法違反を監視し是正する最後の憲法の番人として位置づけられていた」(世界大百科事典 第2版)
「日本国憲法は「最高法規」の章のなかで,憲法の最高法規性を確保するために,天皇をはじめ国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員に憲法を尊重し擁護する義務を課しており (99条) ,新しく公務員になった者は法律上,憲法尊重擁護の宣誓を要求されている。また国民一般については,憲法の定める権利,自由を「不断の努力によって」保持すべきことがうたわれている (12条) 」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
※【防遏】(ぼう‐あつ)
侵入や拡大などを、防ぎとめること。防止。(デジタル大辞泉)
雑感
横田先生は本書の中で、自民党が国民の意識状況に乗じて改正手続の緩和や立憲主義原則の逆転を行おうとしているとたびたび指摘しているのですが、私にはそこまで今の自民党に知恵や目的があるとは思えないのですよね。もっと素朴に「ぼくのかんがえたさいきょうのけんぽう」「ぼくのかんがえたりそうのこっか」をやろうとしているように見えるというか……。
しかし考えたら、右翼というのは、基本的に理性を信じないものだと思うのですけど、その右翼たる自民党が国家(リヴァイアサン!)を縛る鎖である憲法を緩めて自由にしようというのはよく分からない話かもしれません。いくら日本国が素晴らしいとしても、実際に国を操縦しているのはただの人間なわけで、その操縦者がいつ何時バグるとも限らないことを思えば、権力者が下手なことをできないよう安全装置を取り付けておくのはそんなに変な話ではない気がします(自動車だって最近のは歩行者を検知してぶつかりそうになったら自動ブレーキが作動するようになっていたりしますよね)。
そういう意味では、横田先生の言うように、自民党改憲草案を書いた政治家は、右翼でも保守でもなくてただの「お気楽な人たち」というべきなのでしょう。歴史を見渡さずとも、今の時代のご近所に、北朝鮮や中国やロシアといった、国家が人々の人権を蹂躙している国々があるのに、日本も国家権力が好き放題できる国にしようなどというのは、お気楽そのものであります。
もし「いや、日本は中国や北朝鮮やロシアのようにならない!」と言うとすれば、それは日本の為政者を無条件に信頼しているからだと思うのですが、人間を信頼することによる安全保障というのは、自民党が『Q&A』で一蹴している憲法9条の「ユートピア的発想」そのものではないでしょうか。
憲法9条を「ユートピア的発想」であるとして斥けるのであれば自民党改憲草案も斥けなければならないし、自民党改憲草案が安全だというのなら憲法9条による平和保障も成り立つことになってしまうように思われます(立憲主義を維持しつつ9条を改正するというのなら話は分かる)。
「自国の権力者を信用しろ(自民党改憲草案)というのと、他国の国民を信用しろ(憲法9条)では話が違う」という反論もあるかも知れませんが、北朝鮮や中国やロシアは自国の国民を拘束したり拷問したり処刑したりしているので、やっぱり力を持った人間が好き勝手できるようにしておくというのは危ない気がします。
■次回■
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3 「立憲主義憲法」を壊す
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